巻十九第一話 妻子を捨てて家を出た少将の話

巻十九

巻19第1話 頭少将良峯宗貞出家語 第一

今は昔、深草の天皇(仁明天皇。深草は御陵の名)の御代に、蔵人(天皇の秘書)の頭で右近の少将、良峯宗貞という人がありました。大納言康世という人の子です。姿かたちは美麗で、まっすぐな心をもっていました。勝れた学才を備えており、天皇はとても親しく、かわいがっておられました。しかし、嫉妬や羨望から、それをこころよく思わない人も多くありました。

深草陵

春宮(皇太子)は、天皇の御子でした。頭の少将をこころよく思わない人々は、ことあるごとに春宮に悪口を吹き込みました。春宮は頭の少将をなにかにつけて悪く思うようになりました。

少将は春宮の心を知っていましたが、天皇がかわいがってくださるので、日夜朝暮の宮仕えを怠ることなく勤めていました。あるとき、天皇は身に病を受け、幾月もわずらいました。少将は肝も砕け心も迷い、歎き悲しみました。
やがて、崩御なさいました。暗闇の中にいるようでした。

身の置き所なく、生きる甲斐をなくしてしまいました。
「この世には永遠に続く命などないのだ。法師になって、仏道の修行をしよう」

少将は宮家の娘を妻としていました。離れ難く大切にしているうち、男子一人、女子一人の子が生まれました。
「妻は私以外に頼る人がいない。私がいなくなったらひとりになる」
とても心苦しくかわいそうに思いましたが、出家の望みは変わりませんでした。天皇の御葬送の夜、すべての儀式が終わった後、誰にも告げず姿を消しました。妻子や親戚は泣き迷い、知っているかぎりの寺々山々を探しまわりましたが、ついに見つけることができませんでした。

少将は、御葬送の夜の暁に、比叡山の横川にただひとり登っていました。慈覚大師(円仁)が横川の北の谷、杉の大木の空(うつろ、空洞)にあることを知っていたからです。少将は大師が如法経(法華経の書写)しているところに詣で、法師になりました。

たらちねはかかれとてしもむばたまのわがくろかみをなでずやありけむ
(母が髪をなでてくれたのは法師になれという意味ではなかっただろう)

慈覚大師の御弟子となり、法を受け習いました。さらに深く入り、ねんごろに仏道修行をしているときに、新しい天皇が即位したことを知りました。諒暗(天皇の喪)が明けて、「世の人はみな、(喪服を脱ぎ)通常の服を着るようになっているだろう」と考えると、とてもはかなく感じました。入道(出家したので呼び名が変わっている)は、ひとりごとのように詠みました。

みな人は花の衣になりぬらむこけのたもとはかわきだにせず
(人はみな花のように美しい衣に着替えただろう。私はまだ墨染の僧衣のたもとも乾いてはいないのに)

何年か経ちました。入道は修行を続けていました。十月(旧暦)ごろのある日、笠置(笠置寺、京都府相楽郡)に詣でて、ひとり礼堂の片角に蓑を敷いて行をしていると、人がやって参りました。主人らしい女が一人、身の回りの世話をする女房が一人、侍が一人、下男下女二、三人が見えました。一行がいるのは入道のいるところから二間(約3.7メートル)ほどの場所でしたが、暗いところにいたので気づかれませんでした。女主人は人がいることも知らず、仏に願いを申し上げていました。
「消えてしまったあの人の行方を知らせてください」
泣きながら悲しく訴える声を耳をそばだてて聞くと、妻だった人でした。
「私を探しているのだ。まだ寺院をたずね回っているのだ」
とても悲しく哀れに思いました。

笠置寺(正月堂と磨崖仏)

「私はここにいる、と伝えたい」
そう思いましたが、知らせたからどうなるのでしょう。仏はこういう離れがたい気持ちをこそ断ち切らなければならないと説かれました。
じっと念じているうちに、夜が明けてきました。
「帰りましょう」
礼堂から歩き出ていく一行をよく見れば、侍は入道の乳母子(めのとご、ともに育てられるので兄弟のような結びつきが生まれる)でした。帯刀し、七、八歳ほどの子をおんぶしていました。女は、四、五歳ほどの女の子を抱いていました。彼らは礼堂より出て、霧が深くたちこめている中に消えていきました。入道の心がよほど強くなければ、声をかけてしまったことでしょう。

修行につとめるうち、霊験あらたかになりました。病に伏せる人に念珠(数珠)・独鈷などをわたすと、病の要因だった物の気(もののけ)が出ていくこともしばしばありました。

かつて春宮だった人は、即位して文徳天皇となりましたが、ご病気で亡くなりました。その後、子の清和天皇が位につき、政治をおこないました。
ある日、清和天皇がご病気になりました。高位の僧が召され、さまざまな祈祷をおこないましたが、まったく効果がありませんでした。ある人が申し上げました。
「比叡山の横川に、慈覚大師の弟子として、頭の少将宗貞殿が法師になっていらっしゃいます。ねんごろに仏道を修行して霊験があらたかだといいます。彼れを召し、祈祷させましょう」
天皇はこれを聞くと、「召すべし」という宣旨を発しました。
御前で加持すると、たちまちにその験があって、平癒されました。法眼の位を授けられました。

その後、さらにたゆむことなく修行につとめました。陽成天皇の御代になって、霊験あらたかなゆえに、僧正の位を授けられました。

その後、花山というところに住みました。遍照と名乗りました。花山に長く住み、封戸(ふこ、貴族の俸給)を給せられ、輦車(れんしゃ、車に乗って宮中に入る許可)の宣旨をいただき、ついに寛平二年(西暦850年)正月十九日、亡くなりました。七十二歳でした。花山の僧正と呼ばれました。

元慶寺(京都市の花山にある。開祖は遍昭)

出家には機縁があります。宗貞は深草の天皇にかわいがられましたが、文徳天皇にけむたがられて道心を発し、出家しました。それが彼の縁だったのです。そう語り伝えられています。

僧正遍昭(狩野探幽『三十六歌仙額』)

【原文】

巻19第1話 頭少将良峯宗貞出家語 第一
今昔物語集 巻19第1話 頭少将良峯宗貞出家語 第一 今昔、深草の天皇の御代に、蔵人の頭にて、右近の少将良峯の宗貞と云ふ人有けり。大納言康世と云ける人の子也。形ち美麗にして、心、正直也けり。身の才、人に勝たりければ、天皇、殊に

【翻訳】 葵ゆり

【校正】 葵ゆり・草野真一

【解説】 葵ゆり

良峯宗貞(遍昭)は内裏(王宮)に仕えていたのだから、家もその近くにあったと考えられる。京の中央である。
笠置寺は、京都府と奈良県との境に位置している。京の中央からの移動は現在でも容易ではない。妻の夫への思いがとても深かったことがわかる。

笠置曼荼羅図(鎌倉時代、大和文華館)

遍昭は歌人として名高く、紀貫之は『古今和歌集』仮名序で優れた六人の歌人(六歌仙)のひとりとして遍昭の名をあげている。

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