巻11第11話 慈覚大師亙唐伝顕密法帰来語 第十一
今は昔、承和の御代(西暦834年~848年)に慈覚大師という聖がありました。俗姓は壬生の氏、下野国都賀の郡(栃木県小山市・都賀郡)の人です。
誕生のとき、家を紫の雲がおおいました。そのころ、この国に広智菩薩と呼ばれる聖がありました。聖はこの紫雲を見て、驚いて家をたずねました。
「この家にどんなことがあったのですか」
「今日、男子が生まれました」
広智菩薩は父母に教えて言いました。
「その子は、将来やんごとなき聖人となる人です。あなたたちは父母であるが、この子をもっぱらに敬うべきです」
男子は成長し、九歳になったとき、父母に言いました。
「私は出家したいと思います。広智の弟子となって、経を習いたいのです」
経を求めたところ、法華経の普門品(観音経)を得ました。広智に随い、これを習いました。
あるとき、児の夢の中に聖人があらわれ、頭をなでました。聖人の傍には人があって、問いました。
「頭をなでた人を誰か知っているか」
「知りません」
「比叡山の大師である。おまえの師となる人だ。だから頭をなでたのだ」
夢から覚めて、思いました。
「これは比叡山の僧となれということだろう」
やがて比叡山に登り、はじめて伝教大師(最澄)に会いました。大師はほほえみ、大いに喜びました。以前から知っている人に会うようでした。夢に見た人と同じ人でした。
その後、大師の弟子となって、頭を剃り法師になりました。円仁と名乗りました。顕密(顕教と密教)の法を習い、すこしも愚かなことはありませんでした。
伝教大師がお亡くなりになって、思いました。
「私は唐に渡り、顕密の法を習いきわめよう」
承和二年(835年)、唐に渡りました。天台山に登り、五台山に参り、所々を遊行して聖跡を巡礼し、仏法流布の地に行ってこれを習っているとき、会昌の廃仏に出会いました。皇帝(武宗)が仏法を亡ぼす宣旨を下し、寺塔を破壊し、経文を焼き、法師を捕えて還俗させたのです。皇帝の使者は四方に分かれて寺院を滅ぼしました。
慈覚大師はこの使者に出会いました。従者を連れておらず、ひとりでいるときでした。使者たちは大師を見ると、大いに喜んで追いかけました。大師は逃れ、ある堂の中に入りました。使者は堂を開いて探しました。大師はなすすべなく、仏像の間に隠れました。使者たちは大師を見つけられませんでした。そこに新しい不動明王の像があるばかりでした。使者はこれを怪しみ、調べてみると、大師がそのように見えていただけでした。
使者は問いました。
「おまえは誰だ」
「日本の国から法を求めるために来た僧です」
使者は恐れ、しばらく還俗させることをやめ、皇帝にこれを奏上しました。宣旨を下しました。
「他国の聖である。すみやかに追うことをやめよ」
使者は大師を放免しました。
大師は喜び、その地を去り、他の国へ逃れました。遥かに山を越えていくと、人の栖(すみか)がありました。城を築き、堅固に周囲を固めていました。門の前には、人が立っています。大師はこれを見ると、喜んで近寄り、問いました。
「ここはどういうところですか」
「長者の家です。聖人は誰ですか」
「仏法を学ぶため、日本の国から渡ってきた僧です。しかし、このように仏法を亡ぼす世に出会ってしまいました。『しばらく隠れていて、事態が収まったら出ていこう』と考えています」
門に立った人は答えました。
「では、しばらくここにいらっしゃい。ここは人が訪れない、とても静かなところです。世が静まったころ出て、仏法を学ぶべきでしょう」
大師はこれを聞いてとても喜び、この人の後について入りました。大師が入った後、門はかたく閉じられました。
門を入って、さらに奥の方に歩っていきました。大師が見ると、いくつもの屋根がつらなって、人も多いようでした。大師は空き屋に案内されました。
「こんなに静かなところに来たのだ。世が静まるまで、ここにいよう」と喜びました。
「もしかすると、ここでは仏法がおこなわれているのかもしれない」と考え、探しまわってみましたが、仏経はまったくありませんでした。
後の方に家があって、近寄って立ち聞くと、人がうめき苦しむ声が聞こえました。怪しく思ってのぞいて見ると、人を縛りあげて吊り下げて、下に壺を置き、壺に血を垂れ入れています。わけがわからず問うてみましたが、答えはありません。怪しんでそこを去りました。
他の家をのぞくと、また人のうめく声が聞こえました。青い肌をして痩せ枯れた人々が多く臥していました。一人を呼び寄せると、這ひ寄ってきました。
「これはどういうことなのですか。とても堪え難いことがおこなわれています」
この人は木の棒をとって、縷(いとすじ)のようになった肱を指し延べて、土に書きました。
「ここは纐纈(こうけち、しぼりぞめ)の城です。知らずに訪れた人に、まず物を言えなくなる薬を飲ませます。次に肥える薬を飲ませ、その後で、高い所に吊るし、ありこち切って血を出させ、それを壺に集め、その血を使って染めているのです。食物の中に、胡麻のようなものが混じっています。それが物を言えなくする薬です。すすめられたなら、食べたふりをなさい。問いかけられたなら、薬がきいて物が言えなくなったふりをしてうめきなさい。決して言葉を話してはなりません。私たちはその薬を知らずに食べてしまったために、こんな目に合わされているのです。なにか策を案じてお逃げなさい。門は強く閉じられているので、簡単には出られません」
人は地にこう書きました。大師はおそろしくて肝を失い、なにも考えることができませんでした。
結局、逃げることはできませんでした。人が食事を持ってきました。見れば、教えられたように胡麻のようなものが盛ってあります。食べるふりして懐に差し入れ、外に棄てました。食事の後、人が来て問いましたけれども、うめくだけで答えませんでした。人はうまくやったと思い込んで立ち去りました。その後は、さまざまな肥える薬を食べさせられました。
人が立ち去ったとき、大師は丑寅(北東)の方角に掌を合わせ、礼拝しました。
「比叡山の三宝(仏法僧)よ、薬師仏(本尊)よ、私をお助けください。無事に故郷に帰らせてください」
そのとき、一匹の大きな犬があらわれました。犬は大師の衣の袖に食らいつき、ひっぱりました。犬の引くままに行くと、通り抜けられそうもない水門がありました。犬はそこから大師を引き出しました。外に出ると、犬はいなくなっていました。
大師は泣きながら喜んで、足の向くまま走りました。はるかに野山を越えて人里に出ました。人に問われました。
「聖人よ、どうして走っているのですか。どこから来たのですか」
大師はこれまであったことを語りました。
「それは纐纈の城です。人の血をしぼって世をわたっているのです。そこに行った者で帰ってきた者はありません。まさに仏神の助けでなければ、逃れることはできなかったでしょう。あなたはかぎりなく貴い聖人です」
人はおおいに喜んで去りました。
無事に逃げ去ることができ、王城(長安)に至って聞くと、皇帝は崩御されたと聞きました。次の皇帝(宣宗)が即位して、仏法を亡ぼすことはやめたと聞きました。
大師は本意のように、青龍寺の義操という人を師として、密教を習い、承和十四年(847年)帰朝し、顕密の法を弘めたと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 柴崎陽子
慈覚大師円仁は最後の遣唐使として唐に入りました。その旅は困難をきわめ、海難事故に遭遇したほか、滞在期間がとつぜん短縮されて不法滞在したり、帰国を願い出ても許しが出ず何年も待たされたり、行動をともにしていた弟子が亡くなったり、とても困難なものだったようです。
また、円仁が渡ったころは唐朝の末期にあたっており、長安の治安も決してよくなかったと伝えられています。
この話では会昌の廃仏から逃げおおせたように語られていますが、じっさいには強制的に還俗させられ、日本に帰る船の中でふたたび僧になっています。また、帰国は「外国人僧の国外追放」という仏教弾圧の一環として成ったものでした。
円仁の『入唐求法巡礼行記』は日本出発の日から日記のかたちで記されており、唐朝末期の状態や会昌の廃仏の様子を記した一級の資料とされています。
本話に近いエピソードは『宇治拾遺物語』にも取り上げられています。
会昌の廃仏にあって隠れ不動明王像になった話、血染めの纐纈の話、いずれもこちらにも語られています。
【協力】ゆかり・草野真一
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