巻十一第十五話 インドから日本へわたった仏像の話(元興寺の由来)

巻十一(全)

巻11第15話 聖武天皇始造元興寺語 第十五

今は昔、元明天皇は奈良の都に元興寺を建立しました。堂塔を建て、金堂には□丈の弥勒像を安置しました。この弥勒は日本で造った仏ではありませんでした。

『御歴代百廿一天皇御尊影』より「元明天皇」

昔、東天竺に生天子国という国がありました。王を長元王といいます。その国は五穀豊かで、乏しいということがありませんでした。国には仏法がおこなわれていませんでした。その名を聞くこともありませんでした。
「世に仏法というものがあるらしい」
長元王はそう聞いて、「どうにかしてこの国に広めたい」と願いました。
国民に「仏法を知っている者を探し出せ」と、宣旨を下しました。

そのころ、海辺に小船が一艘、風に吹かれて漂い着きました。人はこれを見て怪しみ、国王に奏上しました。この船には僧がひとりだけ乗っていました。国王は僧を召して問いました。
「おまえは何者だ。どこの国から来たのか」
「私は北天竺の法師です。以前は仏法を修行していましたが、今は女人を妻に持ち、数人の子をつくりました。とても貧しく、貯えはありません。子供たちが魚を食べたいと言いましたが、購うことはできないので、暗夜、船に乗って海に出て魚を釣っていたのです。そのときに風に吹いて、望まずしてこの浦に流れ着きました」
国王はこれを聞いて命じました。
「では、法を説け」
僧は最勝王経を読誦し、その大意を説きました。

国王はこれを聞いて喜び、言いました。
「私は法を知った。次は仏の像をつくろうと思う」
「私は仏をつくる者ではありません。もし王がそれを望むならば、心をつくして三宝(仏法僧)に祈請してください。そうすれば、自然に仏をつくる者が現れるでしょう」
王は僧の言に随い、これを祈請しました。多くの財を僧に与え、僧は乏しい者ではなくなりました。

しかし、僧は常に故郷を恋い、財を喜びませんでした。王は問いました。
「なぜ喜ばないのか」
「私の生活は楽になりましたが、旧里の妻子を常に恋しく思っています。ゆえに、素直に喜べないのです」
王は「もっともなことだ」といい、船に多くの財を積んで、故国に帰らせました。

その後、また海辺に小船が一艘漂着しました。船には童子がひとりだけ乗っていました。人はこれを見て、以前と同じように王に奏しました。王は童子を召し、問いました。
「おまえはどこの国から来たのか。何ができるのか」
「私は仏をつくる人です。他の能はありません」
王は座より下り、童子を礼し、涙を流しながら言いました。
「私の願はとげられました。すぐに仏をつくってください」
童子は答えました。
「ここは仏をつくる場所ではありません。閑静な場所がよいのです」
王は自分が遊興の折に使っているしずかな場所を示しました。童子はそこに決めました。

江戸時代の仏師

王は童子の言うとおりに、仏をつくるために必要なものや、材料とすべきものなどを用意しました。童子は門を閉じ、人を寄せずに製作をはじめました。ある人がひそかに門外で様子をうかがうと、童子がひとりでつくっていると考えていたのに、四、五十人ほどの人が作業する音が聞こえて、とても不思議に思いました。
九日たつと、童子は門を開き、仏ができたことを王に伝えました。王は急いでその地に行幸し、仏を礼して言いました。
「この仏はなんという仏ですか」
「仏は十方(あらゆる場所)にいますが、これは当来補処(未来)の仏、弥勒です。今は第四兜率天の内院にいらっしゃいます。ひとたびこの仏を礼する人は、必ずかの天に生まれ、仏に会うことができます」
童子がそう語ると、仏は眉間より光を放ちました。これを見て、王は涙を流して歓喜して礼拝しました。

弥勒菩薩像(2-4世紀、ガンダーラ ヴィクトリア&アルバート博物館)

王は童子に告げました。
「この仏を安置するために、伽藍を築きましょう」
童子はまず伽藍の四面の外閣をつくり、中に二階の堂を建て、仏を安置しました。東西二町(約220メートル)に外閣をめぐらせることは、菩提涅槃の二果を証する相を表します。南北四町(約440メートル)は、生老病死の四苦を離れることを意味します。
「末代悪世に及んでも、この仏を一称一礼する人は、かならず兜率天内院に生れて、永遠に三途(地獄・餓鬼・畜生)の世界を離れ、三会に至り、弥勒仏の説法を聞くでしょう」
そう誓うと、童子はかき消えるようにいなくなりました。王はもちろん、人民もこれを見て、涙を流して礼拝しました。そのとき、仏はふたたび眉間より光を放ちました。

その後、この伽藍には数百の僧徒が住み、仏法を弘めました。国の大臣、百官、人民にいたるまで、かぎりなくこの仏を崇め奉りました。長元王は願の如く、その身のまま兜率天に生まれました。この仏を恭敬供養する者は、身分の上下にかかわらず、兜率天に生まれました。

しばらくして、この国に悪王が生まれました。その寺の仏法はすたれ、僧徒はいなくなりました。人民もやがて滅びてしまいました。

そのころ、新羅の国に国王がありました。この仏の霊験を伝え聞き、思いました。
「なんとかしてその仏を我が国に移して、日夜、恭敬供養したい」
新羅にはたいへん賢く、思慮深い宰相がありました。宰相は国王に申して宣をたまわり、かの国に渡りました。はかりごとをめぐらせ、ひそかにこの仏を船に乗せました。

西暦576年頃の半島

海上で悪風に見舞われ、高い波におそわれ、海が荒れました。これを鎮めるため、宰相は船の財を海中に投げいれました。しかし、風は止みませんでした。命を存するため、第一の財である仏の眉間の珠を取り、海に投げ入れました。竜王は手を出してこの珠を受け取りました。すると、風波がしずまりました。
宰相は言いました。
「竜王に珠を施し、命を存することはできた。しかし、国王に頸を切られてしまうだろう。帰国したならば益はない。この海の上で年月を送ろう」
海の面に向かい、涙を流して言いました。
「竜王よ、あなたは三熱の苦を離れるために、この珠を受け取ったのでしょう。しかし私たちは本国に戻れば、珠を失った咎によって、頸を切られてしまいます。その珠を返し、私たちを救ってくれないでしょうか」
竜王は宰相の夢にあらわれて言いました。
「私たち竜には九つの苦がある。この珠を得た後は、その苦が消えている。ほかに苦を滅する方法があるならば、珠を返そう」

宰相は夢から覚めて喜び、海に向かって言いました。
「あなたは珠を返してくれると言いました。大きな喜びです。あなた方を苦から解放しましょう。幾多の経の中に、金剛般若経という経典があります。懺悔滅罪に勝れた経です。これを書写供養して、あなた方の九つの苦を滅しましょう」
宰相は書写供養しました。すると、竜王は海中より珠を船に返し入れました。しかし、珠の光は竜王が取ったために、消えていました。

金剛般若経(能断金剛般若波羅蜜多経、奈良時代後期、九州国立博物館)

その後、竜王が夢にあらわれて告げました。
「私たちはこの珠の力によって、蛇道の苦を離れることができた。さらに、金剛般若経の力によって、苦は完全に滅した。大いに喜んでいる」
宰相は珠を仏の眉間に入れ、本国に戻り、国王に奉りました。

王は喜び、仏を礼し、本堂の絵図のとおりに伽藍を建立して、仏を安置しました。寺には数千の僧徒が集まり住んで、仏法がさかんになりました。しかし、仏の眉間に光はありませんでした。

それから数百年後、その寺の仏法はすたれていきました。堂の前の海に見たこともない鳥がやってきて、波は堂の前に至りました。僧はみな、この波をおそれて去りました。この寺に人はいなくなりました。

そのころ、わが朝の元明天皇がこの仏の利益霊験を伝え聞きました。
「わが国に仏をうつし、伽藍を建立して、安置することにしよう」
天皇の外戚に僧がありました。賢く思慮があり、仏の道を行う人でした。僧が奏上しました。
「宣旨をいただき、私がかの国に行き、その仏を持ってきます。よくよく三宝に祈請なさってください」
天皇は喜びました。僧はかの国に至り、暗夜に堂の前に船を漕ぎ寄せ、三宝に祈請し、ひそかに仏を盗みとって船に入れて漕ぎ去り、わが朝に仏を運びました。天皇は今の元興寺を建立し、金堂にこの仏を安置しました。

元興寺金堂礎石

その後、この寺に数千人の僧徒が集まり住して、仏法がさかんになりました。法相三論、二宗を兼学して、幾年もたちました。寺の僧たちは、東天竺の長元王の忌日を勤めるべきだと議して、毎年法要をおこなうようになりました。

寺に荒僧がひとりありました。たいへん粗暴な人でした。荒僧は言いました。
「わが朝の元興寺で、天竺の王の忌日を勤める必要はない。今より以後は、勤めなくてよい」
理不尽なことでした。
すべての僧が「どんなことがあっても、本願(仏をつくった人)の忌日を勤めるべきだ」と言いました。議論となり、たがいに争うことになりましたが、荒僧にしたがう者は多く、「忌日を勤めるべきだ」と主張する僧を追い出してしまいました。ほとんどの僧は東大寺に移りました。

両寺は争うようになり、合戦になりました。元興寺の老僧は悪に引かれて、甲鎧を着て、法文聖教を持たずに戦い、諸堂を棄て、十方(すべての方角)に逃げ散りました。若い僧は言いました。
「我が師が逃げ失せたのだ。私たちはこの寺に住むべきではない」
泣く泣く散り失せました。こうして、五日のうちに千余人の僧がみないなくなりました。以降、元興寺の仏法は絶えました。

しかし、かの弥勒は今でもいらっしゃいます。化身のつくった、とても貴い仏です。天竺・震旦・本朝、三国をわたった仏です。たびたび光を放ち、帰敬する人はみな兜率天に生まれました。世の人はもっとも礼拝すべきです。奈良の元興寺に語り伝えられています。

平城京の元興寺の模型。後方の寺院は興福寺(奈良市役所)

【原文】

巻11第15話 聖武天皇始造元興寺語 第十五
今昔物語集 巻11第15話 聖武天皇始造元興寺語 第十五 今昔、元明天皇、奈良の都の飛鳥の郷に元興寺を建立し給ふ。堂塔を起給て、金堂には□□丈の弥勒を安置し給ふ。其の弥勒は此の朝にて造給へる仏には御さず。

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

【解説】草野真一

原典のない話

この話には原典がない。

『今昔物語集』には天竺(インド)編と震旦(中国)編があり、海外の話を取り上げたストーリーも多いが、たいがいそこには元ネタとされる文献がある。
しかしこの話には今のところ、それは見つかっていない。元興寺に伝えられてきた話とされているが、後述の理由でここに描かれた元興寺は現在の元興寺とは別の寺だと言ってよい。

だからかもしれないが、現代のわたしたちには「これ、つくり話じゃねえかな」と疑うポイントがいくつもある。

話の最初の舞台は東天竺の生天子国とされている。海沿いの都市であったと語られているが、天竺(インド)に平気で海を出せるのは、どんな土地か知らないためだろう。

釈尊は紀元前の人としてはたいへんな長命であり、八十歳まで生きたと伝えられている。生涯を旅に過ごしたが、海を見ずに亡くなった。当時の人としては比べるものがないほどに行動範囲は広かったけれども、海沿いに至ることはなかったのだ。

「インドは大陸であり、多くの人は海を見ずに一生を終える」という現代の常識は、当時の日本人の想像の外にあった。

仏像が第二の故郷としたのは朝鮮半島の国・新羅だが、中国大陸に海がほとんどないことはすでに遣隋使・遣唐使によって明らかになっており、だから新羅としたのではないかと推察される。

また、ここにはガンダーラ(現在のパキスタン西北部、北インド)の仏像を挿絵としてあげたが、仏のすがたはその地の人々の理想化された形をとることが普通なので、それをそのまま日本に持ってきたら相当異様なものに感じられたはずだ。それを考えても、この話はにわかには信じがたいところを持っている。

元興寺の衰退

天竺からはるばる旅をしたありがたい仏像は、元興寺金堂に安置されたと述べられている。この金堂は1451年(室町時代中期)に土一揆によって破壊された。同年は大飢饉が起こった年であり、奈良もその例外ではない。

現在、元興寺をルーツとする寺は奈良県に三カ所が存在し、元興寺に由来する文化財はいくつも残っているが、この話に語られる元興寺とは別のものと言ってよい。すくなくとも、この話にあるような法相宗・三論宗兼学の寺は、現在は存在していないのである。

元興寺極楽坊(奈良市、真言律宗)

ここにはさらっと「法相・三論を兼学した」と述べられているが、この二宗は主張が異なり、古くから論争が絶えなかった。「日本思想史上最大の論争」と語られる最澄と徳一の論争も、淵源はこの二宗の対立にある。

元興寺は次第に衰退したが、その要因のひとつはこの二宗兼学にあったことはまちがいない。
この話でも、「敗れたほうの僧はみな東大寺にうつった」と述べられているが、法相宗本山である興福寺に行くことはできなかったからだろう。東大寺は当時も今も華厳宗であり、論争には中立と言っていい立場だった。

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