(①より続く)
巻11第12話 智証大師亙唐伝顕密法帰来語 第十二
和尚は本意のとおり天台山に登り、禅林寺で定光禅の菩提樹を礼拝しました(智顗による植樹があったか)。また、天台大師(智顗)が眠っている墳墓に礼しました。
禅林寺は、天台大師の伝法の寺であります。寺の丑寅(東北)に石の象を安置した堂がありました。これは天台大師が修行しているとき、普賢菩薩が白象に乗って現われたのを、石の象としたものです。
その石の象の南に石窟がありました。ここに、大師の坐禅した倚子がありました。西の辺に石がおいてあり、表面が太鼓のようになっていました。昔、天台大師がこの山に住していたとき、法を説く際、この石をたたいて人々を集めたのです。石の音ははるかに山に響き、人々はみな、この音を聞いて集まりました。
しかし、大師が亡くなってから、この石を打っても、音はでませんでした。今ではこの石を打つ人も絶えてなくなっていました。
日本の和尚はこれを聞くと、小石でこの石を打ちました。すると、その響は山谷に満ちました。昔の大師のときと同じです。僧はみな、「大師のうまれかわりだ」と思い、泣く泣く和尚を礼拝しました。
和尚はつづいて、青龍寺にいらっしゃいます法詮阿闍梨(ほうせんあじゃり)にしたがい、密教を習いました。法詮は恵果和尚(真言第六祖)の弟子です。天竺の那蘭陀寺(ナーランダ寺)の三蔵、善無畏阿闍梨(ぜんむいあじゃり、巻六第七話)の第五代の伝法の弟子です。法詮は日本の和尚を見ると、ほほえみながら寵愛しました。密法は瓶の水を他にうつすように伝えられました。
さらに、和尚は大興善寺という寺で、恵輪という人から顕教を学びました。悟り得ないことはありませんでした。
和尚は顕密の法を学び終え、天安二年(852年)六月に州を出て、商人・李延孝が渡る船に乗り、帰朝しました。九州で帰朝の由を奏上すると、天皇は大いに喜び、使者を派遣して和尚を迎えにやりました。
その後、天皇は深く帰依なさり、比叡山の千光院に住まれていました。
和尚はとつぜん弟子の僧に命じました。
「持仏堂にある香水を持ってきなさい」
和尚、散杖をとって香水をしめらせると、西の空に向かって三度そそぎかけました。弟子弟子の僧はこれを見て怪しみ、問いました。
「どうしたのですか」
「私が以前いた長安の青龍寺の金堂の妻戸(出入り口の扉)に火がついたので、消すために香水をそそいだのだ」
弟子の僧はこれを聞いても、何を言っているのかわからず、理解することができませんでした。
翌年の秋のころ、宋(唐)から商人が渡ってきました。
「去年の四月□日、青龍寺の金堂の妻戸から火が出ました。しかし、丑寅(東北)から、にわかに大雨が降ってきて、火が消えました。金堂を焼かずに済んだのです」
青龍寺からそんな消息が伝えられました。そのとき、例の香水をとってきた僧が言いました。
「和尚が香水を散じたのは、このためだったのだ」
貴びつつ他の僧たちに語りました。
「ここにありながら宋(唐)のことを知るとは、和尚は仏の化身にちがいない」
不思議なことはこればかりではありませんでした。和尚は世をあげて貴ばれました。
その後、和尚は自身の門徒を立て、顕密の法を弘めました。その流れは今もさかんです(寺門派)。ただし、慈覚大師の門徒(山門派)とは常に争いが絶えません。これはわが国だけでなく、天竺・震旦にもあることだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 柴崎陽子
円珍が比叡山にありながら鎮火したという大陸の寺・青龍寺は、長安(現在は西安と呼ぶ)にある密教の殿堂です。空海はこの寺に学び真言密教を確立しましたし、円仁・円珍もここに学んでいます。
ただし、円仁(山門派の祖)と円珍(寺門派の祖)が袂を分かったのも、密教に対する考え方のちがいでした。
もっとも、単なる思想的な対立が宗門を分かつようなものになったとは考えにくく、背景に直接的な利害の対立があったのではないかといわれています。
【協力】ゆかり・草野真一
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