巻11第24話 久米仙人始造久米寺語 第廿四
今は昔、大和国吉野の郡(奈良県吉野郡)に龍門寺という寺がありました。寺には二人が籠って、仙の法を修行していました。一人をあづみ、一人を久米といいます。あづみは先に修行を完成させ、仙人となり、空に飛び去っていきました。
続いて、久米も仙人になりました。空に昇り、飛んでいるとき、吉野川の川岸で、若い女が洗濯していました。衣を洗うため、女は着物をかきあげていました。その白いふくらはぎを見て、久米は心を穢し、女の前に墜落してしまいました。
その後、久米はその女を妻として暮らしました。久米が仙をおこなう様子は北野(菅原道真)が文にあらわし、龍門寺の扉に掲げられています。今でも見ることができます(当時)。
久米はただの人になりました。馬を買ったときの証文に、「前の仙、久米」と署名したそうです。
久米がその女と夫妻として暮らしていたとき、天皇がその国の高市の郡(奈良県橿原市、藤原宮)に都を造ることを考えられました。国内で多くの人夫を徴収し、その任にあたらせました。久米も人夫としてかりだされることになりました。多くの者が、久米を「仙人、仙人」と呼びました。行事官(工事責任者)がこれを聞いて問いました。
「なぜあの男を仙人と呼ぶのか」
人夫たちは答えました。
「久米は先年龍門寺に籠り、仙人の修行を完成させ、仙人となって空を飛んでいたのです。そのとき、女が吉野川でふくらはぎをあらわにして洗濯していました。その白さに目がくらみ、久米は墜落してただの人となりました。今はその女を妻としています。それで仙人と呼んでいるのです」
「では、やんごとなき人ではないか。本仙の法を修行し、一度は仙人になった方だろう。その行の徳をすべて失ったわけではないだろう。この材木も、自分で持ち運ぶのではなく、仙の力で飛ばせばいいではないか」
行事官たちが冗談でそう言い合うのを聞いて、久米は言いました。
「私は仙の法を忘れてずいぶん経ちます。今はただの人です。霊験はすこしばかりも施すことはできません」
心の内で思っていました。
「私は仙の法を修行し、それを会得したが、凡夫(常人)の愛欲によって、女人に心をうばわれ、仙人になることはできなかった。しかし、長く修行した法だ。本尊(仙人修行の仏菩薩)が助けてくれるかもしれない」
行事官たちに言いました。
「やってみます。祈りましょう」
行事官たちは「馬鹿なことを言うやつだ」と思いながら、「とても貴いことですね」と言いました。
その後、久米は静かな道場に籠り、身心を清浄に保ち、食を断ち、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して祈りました。七日を過ぎるころ、行事官たちは久米がいなくなっていることを知り、あるいは笑い、あるいは不思議がりました。八日めの朝、空はにわかに陰り、暗夜のようになりました。雷鳴がとどろき大雨が降り、いっさいのものが見えなくなりました。これをあやしんでいるうちに、雷がやみ、空が晴れました。そのとき、大中小の材木が、南の山辺から空を飛び、都の造営予定地に至ったのです。行事官たちは久米を敬い貴び、拝しました。
その後、これを天皇に奏しました。天皇もこれを聞いて貴び敬い、免田(税が免除されている田)三十町(約0.3平方キロメートル)を久米に施しました。久米は喜び、この田から得た収益でその郡に伽藍を建立しました。久米寺といいます。
その後、高野の大師(弘法大師空海)はその寺に丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の薬師三尊を銅で鋳造して奉りました。大師はその寺で大日経を見つけ、「これこそがすみやかに仏となる教えである」と悟り、真言を習いに唐に渡ることになったのです。
やんごとなき寺であると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
苦しい修行を経て仙人になったのに女のふくらはぎにムラムラしてただの人になっちゃった久米の話。もっとも、この人のムラムラがなかったら空海は大陸に渡らず、真言宗も生まれなかったかもしれない。
『徒然草』には、「色っぽいんだから堕ちるのも仕方ないよな」と語られている。
これを受けたのだろう、坂口安吾が書いている。墜落するのが人間で、だからこそ美しいんだ。
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