巻十一第三十二話② 寺を建てた夫妻(坂上田村麻呂が清水寺を建てた話②)

巻十一(全)

より続く)

巻11第32話 田村将軍始建清水寺語 第卅二

大納言の坂上田村麻呂という人が近衛の将監であったときに、居所を新しい京の西に賜りました。仕事が休みのとき、京を出て、東の山に行き、産を控えた妻のために鹿を求めることがありました。そのとき、田村麻呂は奇異の水が流れ出ているのを見つけました。飲んでみると、とても清々しく、楽しい気持ちになってくるのです。
「この水はどこから流れているのだろう」
水源を探し、滝の下に至りました。

坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』)

将監がしばらく歩いていると、ほのかに経を誦する声が聞こえてきました。聞くうちに懺悔の心が生まれてきました。読経の声をたどっていくうちに、賢心に出会いました。
「あなたのすがたは、ただの人とは思えません。おそらく神仙でしょう。誰の弟子ですか」
「私は報恩の弟子です。この小嶋寺に来たときのことを話しましょう」

夢を見たこと。不思議な水が流れていたこと。翁が寺を譲り、姿を消したこと。ここに寺を建て、観音像を奉ろうとしていること。東の峰で翁の履物を見つけたこと。すべてをつぶさに語りました。将監はこれを聞き、帰ることさえ忘れていました。賢心に永い約束をしました。
「私は志を起こして、願を遂げましょう。あなたのこれまでのありさまを聞いて、仏のように貴ぼうと考えています」
賢心は喜んで庵室の奥に入りました。将監は約束を遂げることを誓い、礼拝して新しい京の家に帰りました。

将監の妻は三善の高子の命婦といいました。将監は妻に、鹿を殺すために山の中に入り、賢心に出会ったことをつぶさに語りました。妻は語りました。
「私は病を癒やすために、(鹿の)生命を殺しました。後世の報は、今謝ったからといってどうしようもありません。願わくは、その罪を許されるために、私の家でその堂をつくり、女身のはかりなき罪を懺悔したいと思います」
将監はこれを聞いて喜び、白壁の天皇(光仁天皇)に賢心のことを申し上げ、得度の許しをいただきました。賢心は名を延鎮と改めました(賢心は私度僧だった)。

その年の四月十三日、延鎮は東大寺の戒壇院において、具足戒を受けました。その後、延鎮と将監は心をひとつにして力を合わせ、かの地の岸を壊し谷を埋め、伽藍を建てました。高子の命婦は、女官を雇い、多くの上中下の人(身分の高い人と低い人=すべての人)に勧め、その力を加えて、金色の八尺(約240センチ)の十一面四十手の観音の像をつくりました。まだ建造の途中から、多くの霊験がありました。供養の後は、世を挙げて崇め奉りました。風に随う草のように、この寺に参りました。

十一面四十手の観音像(京都 三十三間堂)

時は世の末に臨むと言えど、願い求めることがあって、この観音に心を至して祈り申すならば、霊験を施してくださいます。都のあらゆる人がみな首を低くして、歩を運びました。清水寺の由来です。田村の将軍の建てた寺だと語り伝えられています。

【原文】

巻11第32話 田村将軍始建清水寺語 第卅二
今昔物語集 巻11第32話 田村将軍始建清水寺語 第卅二 今昔、大和国高市の郡八多の郷に、小島山寺と云ふ寺有り。其の寺に僧有けり。名を賢心と云ふ。報恩大師と云ける人の弟子也。賢心、専に聖の道を求て、苦行怠る事無し。

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

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