巻11第8話 鑑真和尚従震旦渡朝伝戒律語 第八
今は昔、聖武天皇の御代に、鑑真和尚という聖人がありました。震旦の揚州江陽県の人です。俗姓は淳于の氏でした。十六歳のとき、則天武后の代、長安元年(西暦701年)に、智満禅師という僧について出家して、菩薩戒を受け、竜興寺という寺に住んでいました。戒律をたもって年来を過ごし、やがて年が積もり老境に入りました。
そのころ、日本国より、法を学び伝えるために、栄睿(栄叡)という僧が震旦に渡りました。栄睿が和尚に勧めました。
「私とともに日本に渡り、戒律の法を伝えてください」
天宝十二年(西暦752年)十月二十八日の戌時(午後8時ごろ)、竜興寺を出て、長江のほとりで船に乗りました。竜興寺の僧たちは、和尚の出立を惜しみ悲しみ、泣く泣く止めましたが、和尚は法を弘める心が深く、長江を下り、蘇州の黄洄の浦という所に至りました。和尚とともに僧十四人・尼三人・俗(在家)二十四人が乗船していました。また、仏舎利三千粒・仏像・経論・菩提子(数珠をつくるための実)三斗(三十升)、その他の財を多く運びました。
何か月か航海し、十二月二十五日、薩摩の国(鹿児島県)、秋妻の浦に着きました。その地で年を越しました。
翌年は天平勝宝六年(西暦754年。ここから日本の年号になる)でした。正月の十六日に従四位上大伴の宿禰胡満(こまろ)に頼み、震旦から渡ってきた由を奏上しました。同じ年の二月一日、和尚は摂津国(大阪府)の難波(大阪湾)に着きました。天皇はこれを聞いて、大納言藤原の朝臣仲麿を派遣して、和尚の来日の理由を問いました。和尚は申し上げました。
「私は、大唐揚州の竜興寺の僧、鑑真です。戒律の法を持っています。この法を弘め伝えるために、はるかにこの国に来ました」
天皇はこれを聞いて、正四位下吉備の朝臣真備に詔しました。
「余は東大寺を造った。ここに戒壇を築き、戒律を伝えよ。余が専に喜ぶ所である」
天皇は和尚を迎え、かぎりなく貴び敬いました。
その後、天皇は東大寺の大仏の前に戒壇をつくり、和尚を戒師として、登壇受戒しました。次に后と皇子が沙弥戒を受けました。つづいて賢憬・霊福などの僧八十余人が戒を受けました。その後、大仏殿の西の方に、戒壇院を建てました。多くの人が登壇受戒しました。
あるとき、后が病にかかり、治癒しないことがありました。和尚が薬を奉ると、薬の効果が出て后の病はたちまちに癒えました。天皇は喜んで、大僧正の位を授けましたが、和尚は辞退されたので、改て大和尚の位を与えました。また、和尚に住居として、新田部の親王という人の旧宅を授けました。ここに寺を建てたのが、今の唐招提寺です。
天平宝字七年(西暦763年)五月六日、和尚は顔を西に向け、結跏趺坐して亡くなりました。葬るときには、かぐわしい香が山にただよいました。□が言いました。
「死んで後、三日たっても頭の暖かい人は、第二地(菩薩の位)の菩薩である」
「和尚は第二地の菩薩だったのだ」多くの人が知りました。
和尚が唐から持ってきた三千粒の仏舎利は、今でも唐招提寺にあります。和尚の墓はそのかたわらにあります。これ以後、わが国に戒壇が築かれ、受戒がはじまりました。そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【協力】 草野真一
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