巻十一第九話② 弘法大師空海が大日如来となった話

巻十一(全)

より続く)

巻11第9話 弘法大師渡唐伝真言教帰来語 第九

ちょうどそのとき、遣唐大使として、越前の守正三位藤原朝臣葛野麻呂(かどのまろ)という人が唐にわたることになりました。ともに海の道三千里を行くことになりました。
まず蘇州というところに着きました。同じ年の八月、福州に至り、十二月下旬、唐の皇帝の許しをいただき、都の長安の城に至りました。都に入ると、見物の人が道にあふれました。詔によって、宣陽坊の官宅に住むことになりました。

翌年、勅によって、西明寺の永忠和尚の旧院に移り住むことになりました。そしてついに、青龍寺の東塔院の和尚、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に会うことができました。和尚は日本から来た人を見ると、大いに喜び、笑みを浮かべながら言いました。

恵果(奈良国立博物館)

「私はおまえが来ることをかねてから知っていた。ずいぶん待ったのだ。今日、ようやく相見ることができた。幸せなことだ。私には法を授くべき弟子がなかった。おまえに伝えよう」
香花を備え、灌頂の壇に入りました。

青竜寺 恵果・空海記念堂

入学法灌頂(伝法の最初に行う勧請)で、両部(金剛界と胎蔵界)の大曼陀羅に向かって華を投げると、みな中尊(中央の大日如来)に当たりました。恵果和尚はこれを見ると、かぎりなく讃め喜びました。

胎蔵界曼荼羅(室町時代 14-15世紀)

伝法阿闍梨の灌頂の位を受けました。五百人の僧を招き、斎会を開きました。青龍寺と大興善寺の僧を招いて斎会を開くと、僧たちは讃め喜びました。

大興善寺山門

恵果和尚は日本から来た僧に瓶の水を写すように密教を伝えました。恵果は絵師・経師・鋳師を召し、曼荼羅や法具などをつくらせて言いました。
「私はおまえにすべての法を授けた。これからは法を天下に流布して、人々の福を増しなさい」

恵果の弟子に供奉十禅師順暁(ぐぶじゅうぜんじじゅんぎょう)という人がありました。玉堂寺の珍賀という僧が順暁に会って言いました。
「日本の沙門がたとえ貴い聖人だとしても、同門ではない。ほかの教えを学ばせるべきなのに、どうして秘密の教(密教)を授けるのか」と再三申しました。すると、珍賀の夢に人があらわれて言いました。
「日本の沙門は、第三地の菩薩(菩薩の位)である。小国の沙門のように見えるが、内には大乗の心を宿している」
説き伏せられ、珍賀はあやまちを認め、翌朝、謝罪しに行きました。

宮城の三間の壁に、筆跡がありました(王羲之のものと伝えられる)。破損してから、筆をとって修復しようとする人はありませんでした。皇帝は勅を下し、日本の和尚に書かせました。和尚は筆を取り、五カ所に五行を同時に書きました。つまり、口に一本をくわえ、二本の手と二本の足に筆を持って書いたのです。皇帝はこれを見て、讃め感じ入りました。さらに和尚は残りの一間の壁の面に墨汁をそそぎかけました。それは自然と満ち、「樹」の字になりました。皇帝は五筆和尚と名づけ、菩提子の念珠を施しました。

五筆和尚

あるとき、日本の和尚が長安の城の中を歩き(長安は城の中に街がある)、河のほとりにさしかかると、弊衣をまとった童子があらわれました。頭髪は蓬(よもぎ)のようでした。
「おまえは日本の五筆和尚か」
「いかにも」
「ならば、この河の水の上に文字を書いてみろ」
和尚は童の言うとおり、水の上に清水を讃える詩を書いてみせました。文字はまったく崩れずに流れていきました。童はこれを見て感歎しほほえみました。
「私も書こう。和尚よ、見ていろ」
童は水の上に「龍」の字を書きました。しかし、文字には右の小点が欠けていました(草書の点)。文字は水面に浮かび漂ったまま、流れませんでした。小点をつけると、文字は響を発し光を放ち、龍王となって空に昇りました。この童は文殊でした。弊衣は瓔珞(ようらく、宝石のネックレス)でした。文殊はそのまま姿を消しました。

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やがて、国に戻る日がやってきました。高い岸に立ち、祈請して言いました。
「伝え学んだ秘密の教(密教)を流布し、弥勒(次の仏)が世に出るまで保つために適当な地があるだろう。その地に落ちよ」
三鈷を日本の方に向けて投げると、はるかに飛んで雲の中に入りました。

三鈷(高野山霊宝館)

大同二年(西暦807年)十月二十二日、無事に帰国しました。まず鎮西(九州)の太宰府の大監、高階の遠成(たかしなのたかなり)という人を通じ、持ち帰った法文表を伝えました。帝は(空海が持ち帰った教えを)天下に流布するよう宣旨を下しました。さらに、こう言いました。
「皇城の南面の諸門の額を書きなさい」
空海は外門の額を書きました。

応天門の額を打ち付けた後で見てみると、「応」の字の点をひとつ書き忘れています。和尚はこれを見ると、筆を投げて点をつけました。人々は手を打って感嘆しました。

その後、本意だった真言宗をおこし、世にひろめました。諸宗の学者たちは、即身成仏の義を疑い、反論しました。大師はその疑いを断つため、清涼殿で南に向かい、大日如来の印を結んで観念しました。すると顔色が黄金のようになり、身から金色の光を放ちました。人々はこれを見て、首を低くして礼拝しました。

大日如来坐像(運慶作、奈良市円城寺)

このような霊験はいくつもありました。真言宗は大いに盛り、広まりました。大師は嵯峨天皇の護持僧として、僧都の位をいただきました。

この国の真言宗はここにはじまります。その後、この僧都の流れを引く者が所々にあり、真言の教えはさらに弘まったと語り伝えられています。

【原文】

巻11第9話 弘法大師渡唐伝真言教帰来語 第九
今昔物語集 巻11第9話 弘法大師渡唐伝真言教帰来語 第九 今昔、弘法大師と申す聖御けり。俗姓は佐伯の氏。讃岐の国多度の郡屏風の浦の人也。初め、母阿刀の氏、夢に聖人来て胎の中に入ると見て懐妊して生ぜり。

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柴崎陽子

弘法大師空海の半生を駆け足でたどった物語です。空海には伝説もふくめ、さまざまな逸話が伝わっており、とてもそのすべてを記すことはできません。

ここに記された灌頂は結縁灌頂と呼ばれるもので、密教に独特の儀式です。金剛界・胎蔵界の曼荼羅図に花を投じ、自分に縁ぶかい仏を定めます。空海は両界ともに大日如来だったと伝えられています。

大陸から投げた三鈷がどこに落ちたのかはここには記されていません。この話の結末は、第25話で語られることになります。

応天門の額の話は「弘法も筆の誤り」の話です。

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