巻11第26話 伝教大師始建比叡山語 第廿六
今は昔、伝教大師は比叡山を開き、根本中堂にみずから薬師如来の像をつくり、安置しました。天台宗を立て、智者大師(智顗)の教えをひろめました。
弘仁三年(812年)七月、法華三昧堂をつくり、昼夜を置かず法華経を読ませ、法螺を吹かせました。仏前に灯明が備えられ、この明かりは今なお消えておりません。
弘仁十三年(822年)、天皇に奏して、官符(公文書)を給わり、比叡山に大乗戒壇を立てました。
昔、本朝に声聞戒(小乗戒)が伝わり、東大寺に立てられました。しかし、大師は唐に渡り、菩薩戒(大乗戒)を受けて帰ってきました。
「我が宗の僧は、この戒を受けるべきです。南岳・天台の二人の大師(慧思・智顗)が受戒したのも、この菩薩戒です。比叡山に戒壇院を設けたいと思います」
許されるはずがありません。そのとき、大師は筆をふるい文を起こして、『顕戒論』三巻を記し、天皇に奉りました。証は多く明快であり、比叡山に戒壇院を設立することを許されました。
その後、比叡山では毎年春秋に受戒を行っています。
梵網経にあります。
「菩薩戒を受けていない者は、畜生道にあるのと変わらない。外道と呼ぶべきである」
「僧が人を導き菩薩戒を受けさせる功徳は、八万四千(たくさん)の塔を建てたことに勝る」
大師が一人二人ではなく多くの人を、一年二年ではなく多年にわたって受戒させた功徳はどれほどのものでしょう。心ある人は、この戒を受けるべきです。
また大師は毎年十一月二十一日に、講堂に多くの僧を暑め、法華経を講じ、五日間にわたって法会を行いました(霜月会)。唐の天台大師の忌日です。全山あげての営みとして今も行われています。比叡山をひらいて天台宗を立てたのも、ひとえに天台大師のあとを追ったためです。その恩に応えるために、法会をはじめました。
弘仁十三年(822年)六月四日、大師は入滅(逝去)しました。五十六歳。伝教大師と呼ばれました。実名は最澄です。入滅の時は、あらかじめ弟子たちに知らせてありました。その日は奇異の雲峰に覆われ、しばらくそのままだったといいます。遠くにいる人はこれを見てあやしみ、「今日は山になにかあったのだろう」と疑いました。
その後も、堂塔が建設され、東西南北の谷に房舎がつくられ、多くの僧を住ませ、天台の法文を学ばせました。仏法はさかんに行われ、霊験はことに勝れていました。女人禁制でした。延暦寺と名づけられ、天台宗はここよりこの朝(日本)にはじまったのです。
宇佐八幡より給わった小袖の脇のほころびに、薬師仏をつくったときの削りくずがついたものは、今なお根本中堂の経蔵にあります。また、大師の自筆で書かれた法華経は、箱に入れられ、禅唐院(前唐院)に納められています。代々の和尚は身を浄め、これを礼し奉ります。女にすこしでも触れた人は、これを礼し奉ることはできないと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
比叡山の灯明は「不滅の法灯」と呼ばれ、最澄が開いたときから一度も消えていないとされる。また本話にあるとおり本尊の薬師仏は最澄自身が刻んだとされているが、秘仏として公開されていない。
本話では、比叡山に戒壇院を立て、菩薩戒という新しい戒律を授けられるようにしたことが語られている。まさしく最澄の手柄であり、彼が生涯望み、そのために書物(『顕戒論』)さえ著したものであるが、勅許が下りたのは最澄の死後だった。つまり、最澄は比叡山の戒壇が稼働するさまを見ていないのである。
ふるい戒律、声聞戒は鑑真がもたらしたものだ。
比叡山は密教(密)、坐禅(禅)、戒律(戒)、念仏(念)を兼学する道場であり(四宗融合)、さながら仏教総合大学の様相を呈した。鎌倉時代にはじまる新宗派の多く(浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗など)は、比叡山出身の僧侶によってはじめられている(鎌倉新仏教)。
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