巻11第14話 淡海公始造山階寺語 第十四
今は昔、大織冠(藤原鎌足)がまだ内大臣になられず、なんの役職にも就いていないとき、女帝・皇極天皇の御代のことです。御子は(中大兄皇子、天智天皇)は春宮(皇太子)でいらっしゃいました。二人はともに蘇我入鹿を討ちました(大化の改新、乙巳の変)。大織冠はそのとき、心の内で祈念しておりました。
「たとえ悪人を討つとしても、私のしようとしていることは重罪にちがいない。本意のとおり討つことができたなら、その罪をあがなうために、、丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の釈迦の像と脇士の二菩薩の像を造り、伽藍を建てて安置しよう」
その後、宿願どおり討つことができると、心中で誓ったとおり、丈六の釈迦と脇士の二菩薩の像をつくり、山階の陶原(京都市山科区)の自宅に堂を建てて安置し、恭敬供養しました。
大織冠はやがて左大臣となり、その後亡くなりました。長男の淡海公(藤原不比等)が父の跡を継ぎ、左大臣まで出世しました。
女帝・元明天皇の御代、和銅三年(西暦710年、平城遷都の年)、かの山階の陶原の家の堂を壊し、今の山階寺の所にうつしました。
和銅七年(714年)三月五日、供養をおこないました。天皇の御願として、厳重にとりおこなわれました。氏の長者として、淡海公が参加しました。講師は元興寺の行信僧都という人がつとめ、これを賞に大僧都になりました。呪願師は同じ寺の善祐律師という人がつとめました。小僧都になりました。残りの七僧はみな、僧綱の位を持つ者がつとめました。五百人の僧が参加しました。音楽が鳴り響き、言い尽くすこともできないほどみごとな供養の儀式でした。
寺にはやがて幾多の堂舎や宝塔がつくられ、廻廊・門楼・僧房が建てられて、多くの僧徒が住み、大乗を学び法会を修しました。ここより仏法がさかんなところはありませんでした。
もともと山階にあった堂なので、山階寺と呼びました。別名を興福寺といいました。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【協力】ゆかり・草野真一
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