巻20第27話 長屋親王罸沙弥感現報語 第廿七
今は昔、天平元年(神亀六年)二月八日(西暦729年)、聖武天皇は元興寺において大きな法会をひらき、三宝(仏法僧)を供養しました。太政大臣(実際は左大臣)の長屋の親王という人が勅を受け、諸僧を供養しました。
そのとき、一人の沙弥(しゃみ、小僧)があつかましく供養の飯を盛る所に行き、鉢を捧げて飯を乞いました。親王はこれを見て、沙弥を追い、打ちました。沙弥の頭は破れ、血が流れました。沙弥は頭をさすり、泣きながら血をぬぐい、消えました。行方はわかりませんでした。法会に臨んだ道俗(僧と在家の者)は、これを聞き、ひそかに長屋の親王を批判しました。
その後、長屋をいとわしく思う人があり、天皇に讒言しました。
「長屋は王位を傾け、国を奪おうと考えています。天皇が善根を修する日に、不善をおこなったのはそのためです」
天皇はこれを聞くと大いに怒り、多くの軍を派遣して、長屋の家を取り囲みました。
長屋は思いました。
「私は罪無くして、このような咎をこうむった。生きてはいられないだろう。誰かに殺されるよりは、自害しよう」
まず毒を子たちに服させ、殺しました、その後、みずから毒を服して死にました。
天皇はこれを聞くと人を遣り、長屋の死体を都の外に棄て、焼いて河に流し海に投げました。
やがてその骨は土佐国(高知県)に流れつきました。そのことで国の百姓たちが多く亡くなりました。百姓たちはこれを愁いて言いました。
「長屋の悪心の気によって、多くの人が死にました」
天皇はこれを聞くと、遺骸を都から遠ざけるため、紀伊国の海部の郡の椒抄(はじかみ)の奥の島(和歌山県和歌山市沖ノ島)に置きました。
これを聞いた人は言いました。
「咎もないのに沙弥を打ったことを、護法(仏法の守護神)が怒っているのだ」
頭を剃り、袈裟を着た僧は、善悪を推し量ったり貴賤を選んだりせず、恐れ敬うべきです。その中に、仏菩薩の化身が身を隠してまじっていることを知るべきだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
長屋王の変(729年)を語った物語。
長屋王は天皇の孫であり、皇位継承の資格のある人だが、当時勢いを持っていた藤原不比等(中臣鎌足の子)の血族でなかったために、天皇になることはできなかった。
政治家としてはかなり有能な人であったようで、左大臣(現在の総理大臣のような役職)までのぼりつめている。そんな優秀な人だからこそ、悲劇が起こったと言えるだろう。
不比等の死後、讒言によって反逆者と見なされ、館を攻められて妻子とともに自害した。
この事件は「長屋王の変」と名づけられたが、長屋王が反乱を起こしたわけではない。
長屋王の館を攻めたのは不比等の四人の子の軍であったが、折しも天然痘が流行しており、この四人は相次いで亡くなった。これは長屋王の怨霊によるものとされた。本話はそこに材を得て語られている。
近年(1986年)、奈良市の百貨店建設予定地が長屋王の邸宅跡であることがあきらかになり、発掘調査がおこなわれたが、結局予定どおり百貨店が建設されることになった。これが相次いで倒産・撤退し、改装工事を余儀なくされたため、長屋王の呪いは生きているという噂が現在でもまことしやかにささやかれている。
【協力】ゆかり
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