巻20第45話 小野篁依情助西三条大臣語
今は昔、小野篁(おののたかむら)という人がいました。
まだ学生の身分だったとき、あることで朝廷が篁を処罰したのですが、当時、西三条大臣(にしさんじょうのおとど)・良相(よしみ、藤原良相・冬嗣の五男)と申し上げた方が、宰相(参議)として、何かにつけて篁のために弁護してくださったのを、篁は心中、「うれしいことだ」と思っていました。
やがて年月も経ち、篁は宰相になって、良相も右大臣になりました。
そのうち、大臣は重い病気にかかり、数日のうちにお亡くなりになりました。
と同時に、閻魔王の使いに捕縛されて、閻魔王宮に連れて行かれ、裁判を受けることになりました。
見れば、閻魔王宮に仕える臣下がずらりと居並んでいる中に、小野篁がいます。
大臣はこれを見て、「これは、どういうことだろうか」と不思議に思っていると、篁が笏(しゃく)を手にして、王に申し上げます。
「この日本の大臣は心正しく、人に対して親切な者であります。このたびの罪は、私に免じてお許しくださいますよう」と。
これを聞いて閻魔王は、「これは非常に難しいことといえども、そなたのたっての願いゆえ、許してつかわそう」と、おっしゃいました。
そこで篁は、この捕縛した者に向かい、「さっそく連れて帰りなさい」と命じたので、連れ帰った、と思うや大臣は生き返りました。
その後、病気はしだいに良くなり、数か月経ちましたが、あの冥途(めいど)でのことが不思議でなりません。
しかし誰にも話さず、篁にもまったく尋ねませんでした。
ある日、大臣が参内し、陣の座に着かれましたが、宰相・篁も前からそこに坐っており、他には誰もいません。
大臣は、「ちょうどよい折だ。あの冥途でのことを聞いてみよう。以来、ずっと不思議でならなかったことだから」と思い、膝を進めて、そっと篁宰相へ言いました。
「ここ数か月、良い機会がなくて申さなかったのだが、あの冥途でのことは何としても忘れがたい。いったい、あれはどういうことなのか」
これを聞いて、篁は少し微笑み、「先年のご親切がありがたく存ぜられましたので、そのお礼に申したことなのです。しかし、このことはますますお慎みくださって、人には仰せくださいませんように」と、おっしゃっいました。
そして大臣に、「これはまだ、人の知らぬことでございます」と申し上げました。
大臣はこれを聞いて、いっそう恐れ、「篁はただの人間ではないのだ。閻魔王宮の臣なのだ」と初めて分かり、「人に対しては情けをかけてやるべきだ」と、会う人ごとに熱心にお教えなさいました。
ところで、この話が自然に世間にも知られ、「篁は閻魔王宮の臣として、この世とあの世の間を行き通っている人なのだ」と、誰もが思って恐れおののいた、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
篁が参議になったとき、良相はまだ右大臣ではなかったので、本話は史実と合っていない。しかし後述するように、篁には冥府の官吏だったという伝説がある。この話もその1つだと思われる。
小野篁(おののたかむら・802-852)は、飛鳥時代に遣隋使を務めた小野妹子(おののいもこ)の子孫。参議・岑守(みねもり)の子で、天慶の乱のとき藤原純友を追討した小野好古(おののよしふる)、三蹟の一人で能筆家の小野道風(おののみちかぜ)兄弟の祖父にあたる。
父・岑守が陸奥守に任ぜられると共に陸奥国へ赴き、弓馬の鍛錬ばかりをしていた。帰京しても同様だったため、「侍読を務めるほどであった岑守の子なのに、なぜ弓馬の士になった」と嵯峨天皇に嘆かれ、恥じた篁は学問に励んで弘仁13年(822)試験に合格し、文章生(もんじょうせい)となる。
天長10年(833)に仁明天皇が即位すると皇太子・恒貞親王(承和の変で廃され、出家して大覚寺の初祖)の家庭教師、つまり東宮学士に任ぜられた。
博学で詩文に長じ、草書・隷書の巧みさは中国・東晋の書聖・王羲之に匹敵すると言われた。養老令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』の撰進に参画。承和元年(834)に遣唐副使に任ぜられるが、二回に渡り失敗し、三度めの遣唐の際に大使の藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の専横に怒り、自身の病と老母の世話を理由に乗船を拒否した。のちに恨みの気持ち含んだ風刺の漢詩を作り、これを読んだ嵯峨上皇が激怒し、承和5年(838)に隠岐国へ流罪となった。(このときの情景は巻24第45話にある)
承和7年(840)、罪を赦されて帰京し、承和9年(842)には〝承和の変〟によって皇太子となった道康親王(のちの文徳天皇)の東宮学士に任ぜられ、蔵人頭、左中弁と要職を歴任し、承和14年(847)には参議に任ぜられて公卿となった。
(〝承和の変〟とは、伴建岑、橘逸勢らが謀反を企てたかどで流罪になり、無実だった恒貞親王が廃太子となった事件で、妹の子を皇太子にするための藤原良房の陰謀だったと言われている)
小野篁の異名は、野相公、野宰相。直情怪行、その反骨精神によって野狂とも称された。
たいへん頭の回転が速かったようで、『宇治拾遺物語』の巻三「小野篁広才事」では――
「無悪善」という落書きを嵯峨天皇が読めと篁に命じたところ、「恐れ多い事です」と、なかなか読もうとしない。天皇がさらに催促するので、「『さがなくてよからん』(嵯峨天皇がいなければよいのに)と申しております」と答える。
読めたのは、篁自身が書いたに違いないと怒った嵯峨帝は、どんな文章でも読めると言った篁に、「子子子子子子子子子子子子」を読めと命じた。
篁は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いたところ、天皇は微笑まれてお咎めはなかった。
――という逸話を載せている。
篁については、昼間は朝廷で官吏を、夜は冥府で閻魔王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が平安時代末期から鎌倉時代にかけて流布していた。
本話では、恩を受けた文徳天皇の母方の叔父・藤原良相をとりなしによって蘇生させている。(良相について詳しくは、巻22第5話の解説にて)
説話集『江談集』では、藤原高遠を生還させている。
冥府との往来には井戸を使い、入口は現在の京都東山の六道珍皇寺、出口は京都嵯峨の福正寺(廃寺)の井戸がそれだったという。
中国では六朝のころから怪異譚が作られ始め、生者が冥府の官吏を兼任している説話もその中にすでに存在する。
『唐宋伝奇集(下)(岩波文庫)』に収められている「冥界からもどった女」「同宿の客」などは手に取りやすいかもしれない。
小野篁が何故、冥府の役人として後世に語られるようになったのか、不明だが、その反骨精神、法に明るく博識、遠流となっても赦されて参議まで上ったその才と野狂と呼ばれた性格に由来するのではないかと推察する。
嵯峨天皇の時代から、死刑はあっても罪を一等減じて流罪とするのが慣例化した。死の穢れや仏教の因果応報の考え、また怨霊に対する恐怖などからと考えられる。そのため、流刑が一番重い刑罰となった。その中で遠くへ流される遠流(おんる)は、死刑に等しかった。ところが、篁は2年で赦されて京へ戻り、復官した。それは、当時、奇跡に近かった。その頃の人びとは、まさに〝黄泉還り〟と受け取ったことだろう。
隠岐国については、重大な罪を犯した者、もしくは高貴な人が流されており、少し後になると、鎌倉幕府の執権・北条義時を討とうとして失敗した後鳥羽上皇、倒幕計画を失敗したときの後醍醐天皇が配流されている。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
小学館 日本古典文学全集28『宇治拾遺物語』
『唐宋伝奇集(下)』今村与志雄訳、岩波書店
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[…] 今昔物語 巻20第45話 小野篁依情助西三条大臣語の話を読む […]
[…] 小野篁は冥界で閻魔(えんま)様にお仕えしていたという話が「今昔物語集」に描かれているそうです。ちょっと読んでみたくなりました。 […]