巻二十第三話 天狗が仏に化けて古木に現れた話

巻二十

巻20第3話 天狗現仏坐木末語 第三

今は昔、延喜の天皇(醍醐天皇)のころ(897~930)、五条の道祖神がいらっしゃるところ(現在の松原道祖神社)に、実のならない大きな柿の木がありました。

その柿の木の上に、仏が現われました。
まばゆい光を放ち、たくさんの花を降らせ、とても貴い様子です。身分の高い人から低い人まで、京のあらゆる人が詣でました。車も動けず、人も歩むことができない、たいへんなにぎわいでした。

そのように拝み騒いでいるうちに、六、七日が過ぎました。

そのころ、光の大臣(源光)という人がありました。深草の天皇(仁明天皇)の御子です。多くの才能に恵まれ、とても賢い人でした。彼は仏が現れたことを、不審に思っていました。
「本当の仏が、木に現れるのはおかしい。これは、天狗などのせいにちがいない。外道の幻術は七日が限度だという。行ってみよう」
大臣はきちんとした装束をつけ、檳榔毛の車(びろうげのくるま、牛車)に乗り、馬に乗った先払いの者などをともなって、赴きました。

集まっていた人をどかし、車から牛をはずし、榻(しじ)を立てて、すだれを巻き上げて見ると、たしかに仏が木の上にいらっしゃいます。金色の光を放ち、空から様々の花を降らせています。まるで雨のようです。たいへん尊い様子でした。

しかし、大臣はこれを怪しく思いました。
仏に向かい、瞬きもせず、一時(現在の2時間程度)ばかり見つめていました。仏はしばらく光を放ち花を降らしていたのですが、じっと見つめられていたために、やがて屎鵄(くそとび、トビの一種)の翼が折れたものの姿を現し、木の上から地面に落ちてあわてふためいていました。多くの人はこれを見て、「おかしなことだ」と思っていました。子どもたちが寄ってきて、この屎鵄を打ち殺してしまいました。

「真の仏が、とつぜん木の上に現われたりするものか。理由がない。そんなことも悟らずに、拝んでいるのは愚かなことだ」
大臣はそう言って帰りました。

その場にいた人はみな、大臣を褒め称えました。世の人もこの話を聞き、「大臣は賢い人だ」と賛辞を惜しまなかったといいます。

【原文】

巻20第3話 天狗現仏坐木末語 第三 [やたがらすナビ]

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【協力】
草野真一

【解説】
草野真一

柿の古木の樹齢は数百年に至るという。人の寿命よりはるかに長いというそのことが、霊性や神秘性を感じさせるのであろう。

この話はそんな柿の古木が舞台である。

ここで天狗(と称しているのはタイトルだけで、文中では屎鳶と表現している)は仏に化けているわけだが、それってそんなに悪いことかしら、と思った。
せいぜいがお賽銭やお供物をいただくぐらいだろう。大した罪じゃないのでは。

――と、考えるのは信仰のない者だけである。
これは重大犯罪なのだ。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、「俺たちが信じているものは、俺たちが思ってるのと違うものなんじゃないか」がメイン・テーマになっている。

 

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