巻20第34話 出雲寺別当浄覚父成鯰肉得現報忽死語 第卅四
今は昔、上津出雲寺という寺がありました。造立から久しく経って、堂が倒れ傾いてきましたが、修理をしようという人がありませんでした。かつて伝教大師(最澄)が震旦(中国)にいて達磨宗(天台宗。最澄は禅宗の祖でもある)を立てる地を探していたとき、大師は寺の絵図を描いて「高尾(京都市)・比良(滋賀県大津市、比叡山がある)・上津出雲寺の地、この三つの中でどれが吉であろう」と考えました。
この寺の地は、とくに勝れて素晴らしいものでしたが、住僧が濫行していたため、やめたといわれています。やんごとなき地ではありますが、どういうわけか現在は荒廃しています。
この寺の別当は、妻子をともなった(破戒の)僧がつとめていました。浄覚といい、前の別当の子であります。
ある日、浄覚の夢に、死んだ父の別当が、ひどく老耄した、杖を突いた姿であらわれました。
「私は仏の物を濫用した罪によって、現在は鯰の身になっている。大きさは三尺(約90センチ)ほど、この寺の瓦の下(屋根裏)に住んでいる。行くところもなく、水も少なく、狭く暗い所だ。苦しく、かぎりなく侘しい。明後日の未時(午後二時)に、大風が吹いて、この寺は倒れる。寺が倒れたならば、私は地に落ちて、這って行くほかない。童部(子供)が見れば打ち殺してしまうだろう。童部に打たせず、桂川に持って行って放ってくれないか。そうすれば私は多くの水と広い場所を得て、楽をすることができるだろう」
浄覚は覚めた後、妻にこの夢を語りました。妻は「どういう意味の夢でしょうか」と言って、この話はそれきりになりました。
その日の正午ごろ、にわかにかきくもり、強い風が吹きはじめました。木を折り、家を壊しました。多くの人は、風に倒壊された家を修理してまわりました。しかし、風はいよいよ強くなり、村里の人の家はみな吹き倒れ、野山の木草はことごとく倒れ折れました。
未時ごろ、寺は吹き倒されました。柱は折れ、棟は崩れ、倒れました。裏板の中に長いこと雨水がたまっていて、その中に大きな魚が多くありました。これが庭に落ちてきて、そのあたりの者は桶を抱いてかきいれ騒ぎました。その中に三尺ほどの鯰がおりました。夢で見たとおりでした。
浄覚は慳貪邪見が深いために、夢の告があったことも忘れ、大きな魚を喜び、長い鉄の杖を魚の頭に突立て、太郎子(長子)の童を呼び、「これを取れ」と言いました。魚が大きく子供には取られなかったので、鎌で顋(あぎと)を掻き切り、葛で貫いて、家に持ち行きました。鯰も他の魚といっしょに桶に入れて、女共に戴かせて、持って行かせました。
妻はこの鯰を見て言いました。
「これは夢に見た鯰ではありませんか。どうして殺したのですか」
浄覚は答えました。
「子どもたちのために殺したのだ。あえて私が取って、他人を交えず子どもたちと食う。死んだ父の故別当はきっと喜ぶだろう」
ぶつ切りにして、鍋に入れて煮て、たらふく食べました。
浄覚は言いました。
「不思議なことだ。この鯰はずいぶんうまい。父の故別当の肉だからうまいのだ。ほら、この汁を飲(すす)ってみなさい」
妻に言って、さらに食っていると、大きな骨が浄覚の喉に刺さりました。嘔吐し、惑いましたが、喉の骨を出すことができず、やがて死にました。妻は気味悪がって、この鯰を食べませんでした。
間違いないことです。夢の告を信じなかったために、その日のうちに報いを受けたのです。死んだ後は悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に堕ち、量りなき苦を受けることでしょう。
これを聞く人は、みな浄覚を謗り憎んだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
「天台宗」「比叡山」は(たぶんあえて)伏せている。
この話は『宇治拾遺物語』にもあるが、そちらではこの呼称を採用している。
上津出雲寺は倒壊してしまっているため、どこにあったのか判然としない。一説によれば現在、上御霊神社があるところ(京都市上京区)ではないかといわれている。
江戸時代に鯰絵が流行するまで、鯰が記録にあらわれることはほとんどなかった。地震除けとして屋根裏で鯰を飼育する習俗があり、これがもっとも古い例ではないかといわれている。
【協力】ゆかり
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