巻二十第六話 憑かれた女に誘惑される話

巻二十(全)

巻20第6話 仏眼寺仁照阿闍梨房託天狗女来語 第六

今は昔、京の東山は仏眼寺に仁照阿闍梨(あじゃり、高位の僧)という人がありました。とても貴い方でした。

長く寺で修行し、寺を出ることもありませんでしたが、ある日、七条に住む金箔打ちの妻という女が阿闍梨の房にやってきました。見たところ三十歳余、どう見積もっても四十そこそこの女です。餌袋(えぶくろ)に干飯(ほしいい、携行食・保存食)を入れ、堅い塩(精製前の塩)や海藻など(いずれも僧が常食した粗末な食事)を阿闍梨に差し上げました。
女は言いました。
「たいへん貴い方だと伝え聞き、お仕えしたいと考えて参りました。衣服などをご用意して差し上げるのはたやすいことです」
言葉たくみに言って帰り去りました。

阿闍梨は思いました。
「あの女は何者だろう。なぜ来たのだろう」
それから二十日ばかり経って、ふたたび女が現れました。餌袋には精製した米が入っており、餅を入れた櫃や菓子などを、下女に持たせて参りました。

女は幾度もやってきました。阿闍梨は考えました。
「私を貴いと思ってくれるからこそ、これほど絶えずやって来るのだろう」
七月ごろ、女は瓜や桃などを下女に抱かせて参りました。ちょうど、寺の法師たちは、みな京に行って留守にしていました。

阿闍梨一人だけが残っているのを見て、女が申しました。
「このお寺にはほかの方はいらっしゃらないのですか。気配がありませんが」
阿闍梨は答えました。
「ふだんは私のほかに法師があるのですが、所用あって、京に参りました。そのうち戻るでしょう」
女は言いました。
「よい折に参りました。申し上げたいことがあり、何度も来ていたのですが、ふだん周りに人があるために、言えずにいたのです。聞いていただきたいことがあります」
女は阿闍梨を人のいないところに呼び寄せました。
近づいて聞こうとすると、女は阿闍梨を捕えました。
「ずっと申し上げたいことがありました。私を助けてください」
女はそう言いながら、さらに近づいてきます。
阿闍梨は驚いて、「これはどういうことだ」と言い、女を振り払おうとしました。しかし、女は「助けてください」と言って、さらに強引に抱きついてきます。
阿闍梨は言いました。
「やめてください。おっしゃりたいことがあれば、聞きます。たやすいことです。ただし、仏に申しあげてからです。話を聞くのはその後です」
阿闍梨が離れようとすると、女は阿闍梨を捕え、持仏堂の方へつれていきました。

阿闍梨は仏の御前に出て申しあげました。
「予想もしていなかったことですが、私は魔縁に取り憑かれたようです。不動明王よ、私を助けてください」

不動明王(京都東寺、国宝)

念珠を砕けるほどに握り、額を破れるほど板敷にあてました。すると、女は二間(約3.7メートル)ほど投げつけられ、打ち伏せられました。両腕をとられ、天にしばられ、コマのようにくるくる廻りました。

女は天までとどくほどの金切り声をあげました。その間、阿闍梨は念珠を押しもみ、仏の御前にうつぶし続けています。女は叫びながら、柱に頭を四五十度ほども打ちつけました。「助けて、助けて」とずっと叫んでいました。

阿闍梨は頭を上げ、女に問いました。
「これはどういうことなのだ」
女は答えました。
「もはや隠すこともありません。申し上げます。私は東山の大白河に通っている天狗です。この御房の上を常に飛んでおりました。阿闍梨はいつも御行たゆみなく、(修法のための)鈴の音が聞こえてきます。とても貴い方だと聞いたので、『堕落させてやろう』と考え、この一年というもの、この女に憑いていたのです。ところが、聖人の霊験は貴く、このように逆に搦めとられてしまいました。以前は妬ましいと考えておりましたが、今はすっかり懲りています。どうか逃がしてください。翼も打ち折られ、術もありません。どうか助けてください」
阿闍梨は仏に向かい、涙を流して礼拝し、女を放免しました。

そのとき、女に取り憑いていた天狗は落ちました。女はもとの心を取り戻し、髪をかきなでつつ、何も言わず出ていってしまいました。
阿闍梨は、それより後もさらにつつしみ、いよいよゆるむことなく修行したと伝えられています。

『山海経』(中国・漢時代)より「天狗」

【原文】

巻20第6話 仏眼寺仁照阿闍梨房託天狗女来語 第六
今昔物語集 巻20第6話 仏眼寺仁照阿闍梨房託天狗女来語 第六 今昔、京の東山に仏眼寺と云ふ所有り。其(そこ)に仁照阿闍梨と云ふ人住けり。極て貴かりける僧也。 年来、其の寺に行ひて、寺を出る事も無くして有ける程どに、思ひ懸けず、七条辺に有ける薄(はく)打つ者の妻の女の、年卅余四十許也けるが、此の阿闍梨の房に来たり...

【翻訳】
草野真一

【校正】
草野真一

【解説】
草野真一

天狗が通っていた白河は、平安遷都したころは葬送の地であり、人の姿のないさみしいところだった。天狗の集うところと考えられており、この話はそのころのものだろう。

しかし、藤原良房が白河に別荘を建立したころから、事情が変わってくる。白河にはやがて御所が置かれ、院政の中心地になっていくのだ。

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この話で紹介されているのは「天狗憑き」と呼ばれる現象である。キャラクターとしての天狗は姿を見せていない。

憑かれた女の供物は次第に高級なものに変わっている。
女が最後に捧げる桃は、桃源郷という言葉に見られるように、異界の果物とされていた。

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