巻20第19話 橘磐島賂使不至冥途語 第十九
今は昔、橘の磐島という者がありました。聖武天皇の御代、奈良の都の人でした。大安寺の西の郷に住んでいました。
大安寺の修多羅供(しゅたらく、寺院運営の基金)の銭四十貫を借り、越前の国(福井県)敦賀の海岸に行って、品物を仕入れて、船に積み、帰ろうとしたときに、にわかに病にかかりました。船をとどめて馬を借り、それに乗ってひとりで帰ることにしました。近江の国高島の郡(滋賀県高島市)の浜(琵琶湖畔)でふりかえると、一町(約110メートル)ほど後ろに、男が三人ついてきていました。
山城の国宇治の橋(京都府宇治市、宇治川にかかる橋)をわたろうとすると、この三人の男が、近よってきて、並んで歩くことになりました。
磐島は問いました。
「あなたがたはどこに行こうとしているのですか」
「我々は閻魔王の使いである。奈良の磐島を召しに行く」
磐島はこれを聞いて驚きました。
「それは私のことです。どうして召すのですか」
「我々はまずおまえの家に行った。聞けば『商(あきない)のために他国に出かけてまだ帰ってこない』というので、敦賀の海岸で探したのだ。見つけて捕らえようとしたとき、四天王の使いがやってきて、『この人は、寺の銭を借りて商いをして、返し納めようとしている。しばらく待て』というので、家に帰るまで許したのだ。ずっとおまえを求めていたから、腹が減ったし疲れた。なにか食いものはあるか」
磐島は答えました。
「道中で食べるために、糒(ほしいい、携帯食)をすこし持っています」
これを与えて食べさせようとすると、鬼が言いました。
「おまえの病は我々の霊気によるものだ。近くに来るな。(旅が終わるまで無事だから)恐れることはない」
磐島と鬼はともに帰りました。
家に着くと、磐島は食べものを用意させ、大いに饗応しました。鬼が言いました。
「我々は牛の肉を食いたいと思っている。すぐに手に入れて、食わせてくれ。世の中で牛を取って食うと言われているのは我々だ」
「家に斑牛(まだらうし)が二頭います。これをすべて差し上げましょう。なんとか私を許してもらえませんか」
鬼は答えました。
「我々はおまえがくれた多くの食べものを受けた。その恩はかならず返す。しかし、おまえを許したら、我々が重い罪を負うことになる。鉄の杖で百度打たれるだろう。おまえと同じ年の人はいないか」
「同い年の人は知りません」
鬼のひとりが怒って言いました。
「おまえは何年だ」
磐島は答えました。
「戊寅(つちのえとら)の年です」
鬼は言いました。
「その年の人なら知っている。おまえのかわりにその人を召そう。ただし、おまえがくれた牛は食う。また、我々が打たれ責められる罪をまぬがれるために、我々三人の名を呼んで、金剛般若経百巻を読誦させてくれ。我々は、『高佐丸』『仲智丸』『津知丸』である」
鬼たちは、夜半に出ていきました。
明朝、牛が一頭死んでいました。磐島はこれを見て、すぐに大安寺の南塔院に行き、沙弥(しゃみ、僧)仁耀(にんえ)を請じて、事の次第をくわしく語り、金剛般若経を読誦してもらい、鬼のために廻向しました。二日の間に、百巻を読誦し終えました。
三日めの朝、かの鬼があらわれて言いました。
「我々は般若の力によって、百度の杖の苦をまぬがれることができた。今まで得ていた食のほかに、さらに食を増してもらった」
鬼はたいへんに喜び貴びました。
「今から後は、六斎日ごとに、我々のために功徳を修し、食を供せ」
そう伝えると、忽然と掻き消えるように去りました。
その後、磐島は九十余歳で命を終えました。これは商いのために大安寺の銭を借り、未だ返し納めていなかったために、命を保ったのです。また、鬼の行為は正しくありませんでしたが、般若の力によって苦をまぬがれました。とても貴いことだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
歴史学者・網野善彦の本に、「日本に貨幣経済が浸透したのは南北朝時代」という記述があり、下の話に物々交換の事例を見つけ、やはり網野先生の御説は正しいと思っていたのだが。
この話は大安寺にお金を借りて、敦賀に品物を仕入れに行った帰りのできごと。修多羅供の銭とは寺院運営の基金で、利子をとって貸付もしていたという。思いっきり貨幣経済やないか!
おそらく、都会と田舎は事情が違っていたのだろう。
なにしろこの話、都だったころの奈良の話である。
ここには四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が描かれている。寺を守るものとされていた。
鬼が牛を食うのは、恐ろしいものの証である。当時の日本人に牛肉を食う習慣はなかった。
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