巻2第1話 仏御父浄飯王死給時語 第一
今は昔、仏の父である迦毗羅国(かぴらこく。釈迦族の王国)の浄飯王(じょうぼんおう、スッドーダナ王)は年老いて病にかかり、日ごとに重くなって悩み乱れていました。痛みはまるで木の実から油をしぼるように身をせめました。「もう終わりだろう」と観念しました。御子の釈迦仏・難陀(ナンダ、釈迦の異母弟。王にとっては次男)、孫の羅睺羅(らごら、ラーフラ)、甥の阿難(あなん、アーナンダ)などに会わずに死ぬことを嘆きました。
このことを仏に伝えたいと思いましたが、仏は舎衛国(しゃえこく、コーサラ国)にあります。迦?羅国とは五十由旬(ゆじゅん、500キロ以上)も離れているため、使者が着くころには、浄飯王の命はないでしょう。后や大臣はこのことを思い悩んでおりました。仏は霊鷲山におりましたが、父王の病と、周囲の人が悲しんでいることを知り、難陀・阿難・羅睺羅などをともなって、浄飯王の宮をおとずれました。
浄飯王の王宮は、朝日に差し入ったように金の光が隙なく照らし、輝きました。浄飯王ををはじめとして多くの人は驚き怪しまずにいられませんでした。大王もこの光に照されて、病苦は失せ、身がかぎりない楽につつまれました。
やがて、仏は難陀・阿難・羅睺羅などとともに、虚空より降りてきました。大王は仏を見て、雨のように涙を流し、合掌して喜びました。仏は父の傍らで本生経を説きました。大王はたちまち阿那含果(あなごんか、聖人の位)を得ました。さらに大王は仏の手をとり、胸にひきよせました。そのとき王は阿羅漢果(あらかんか、阿那含果より上の位)を得ました。それからしばらくして、大王の命は絶えました。城の上中下の人は、みな嘆き悲しみました。その音は城をゆるがしました。
人々は七宝の棺(ひつぎ)をつくり、大王の身に香油を塗り、錦の衣を着せて、棺に入れました。枕もとには仏と難陀、足もとには阿難と羅睺羅が候いました。
仏は葬送の時、末世の衆生が父母の養育の恩に報いないことをいましめるために、みずから棺をかつごうとしました。すると、大地は震動し(よいことのしるし)、世界は揺れ動きました。人々はみな、踊り騒ぎだしました。水の上にある船が、大波にあったときのようでした。四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が仏に申し請いて、棺をかつぐことを望みました。仏はこれを許し、みずからは香炉をもって、大王の前を歩きました。
墓所は霊鷲山の頂上です。羅漢(聖者)が、海辺に流れ来た栴檀の香木を拾い集め、大王の身を焼きました。仏は無常をお説きになり、焼き終わった後、舎利(骨)を集め、金の箱に入れ、それを置いた場所に塔を立てたと語り伝えられれいます。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
釈尊の父・浄飯王の臨終を描いた作品である。棺をみずからかつごうとする姿に、父の死をいたむ人間・釈迦の姿を見ることもできる。
この王様、息子はふたりとも出家しちゃったわけで、跡継ぎいないよなあ。どうしたんだろう。知ってる人教えてください。ひょっとするとこれ、シャーキャ族滅亡の一因なのかもしれない。
霊鷲山は摩訶陀国(マガダ国、ビハール州)にあり、舎衛国(コーサラ国、ウッタル・プラデーシュ州)とは場所が異なる。遠い遠い天竺の話、記述が混乱していることも考えられる。
ここで述べられている本生経とは釈迦の前世を語ったもので、法隆寺の玉虫厨子にも描かれている。説話集の色彩が強く、ジャータカの名で親しまれている。
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