巻4第1話 阿難入法集堂語 第一
昔、天竺で、仏が涅槃に入った後、迦葉(大迦葉、だいかしょう、マハーカッサパ)尊者を上座として、千人の羅漢(聖者)が集まり大小乗の経の結集をおこないました。
阿難(あなん、アーナンダ。釈迦の身の回りの世話をした)に批判が集まりました。迦葉が問いました。
「おまえは仏に助言をおこない、憍曇弥を出家させ、戒を許した。このことで正法(正しく法がおこなわれる期間)千年が五百年に短くなったと言われている。どう考える」
阿難は答えました。
「仏の生きていらっしゃる間にも滅後にも、必ず四部の衆がありました。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷(びく・びくに・うばそく・うばい。僧・尼僧・在家男性信者・在家女性信者)です」

さらに問いました。
「仏が涅槃に入ったとき、おまえは水を汲んで持っていかなかったそうではないか」
阿難は答えました。
「そのとき、河の上流を五百の車が通りました。濁った水を汲んで仏にさしあげることはできませんでした」
迦葉はつづけてこう問いました。
「仏はおまえに問うたことがある。『一劫に住すべきか、多劫に住すべきか(人としての寿命をまっとうすべきか、幾代にもわたって生きるべきか)』。仏は三度もその問いをおまえに問うたにもかかわらず、おまえは答えなかった。なぜか」
阿難は答えました。
「その問いに答えれば、天魔・外道が仏の寿命を知ることになります。それによって生じる障碍も大きくなるでしょう。だから答えなかったのです」
さらに問いました。
「仏が涅槃に入ったとき、摩耶夫人(釈尊の母)が忉利天より手を延べて、仏の御足を取って、涙を流した。僧の身体に女人の手がふれてはならない。にもかかわらず、おまえは摩耶夫人を制止しなかった。親しき御弟子がこれをしなかったのは大きな過失ではないか」
阿難は答えました。
「のちの人々に、親子の悲しみ深き事を知らせたかったのです。子は親の恩を知り、その慈悲の心に答えたいと考えます」

阿難の回答には、まったく過誤はありませんでした、迦葉は詰問をやめました。
千人の羅漢(聖者)が、霊鷲山に至り、法集堂に集まりました。
迦葉が言いました。
「千人の羅漢のうち、九百九十九人はすでに学ぶことのない(無学の)聖者になっている。しかし、阿難はまだその境地に達していない。彼にはまだ女を慕う心があり、まだ習得すべきことがある(有学)。堂に入ってはならない」
迦葉は門を閉めてしまいました。
阿難は堂の外で迦葉に言いました。
「私が有学だったのは四悉檀(ししったん、釈迦のすべての説法を分類したもの。在家向けの教えをふくむ)の説法すべてを聞くためです。女についてはまったく愛着の心はありません。私を入れて、座に着かせてください」
迦葉は言いました。
「おまえはまだ習得していないことがある。すみやかに無学の果を証明するならば、入れて座に着かせてやろう」
阿難は言いました。
「私は既に無学に至りました。入れてください」
迦葉が答えました。
「無学ならば、神通力で戸を開けずに入ってきなさい」
阿難はこれを聞くと、鍵の穴から入りました。諸の衆は目を見はりました。人々はこれによって、阿難を自分たちのリーダーと認めたのです。
阿難は高座(ステージ)にあがり、「如是我聞」と言いました。人々はこれを聞くと、「師・釈迦如来がよみがえって、私たちのために法を説いてくれているようだ」と考え、声をあわせて偈を説きました。
面如浄満月(面は満月のようだ)
眼若青蓮花(眼は蓮花のようだ)
仏法大海水(仏法は大海水のように)
流入阿難心(阿難の心に流れ入った)
おおいに讃歎しました。その後、大小乗の経を結集したのです。これは、釈尊の言葉をもっとも近くで聞いていた阿難の言葉でありました。
この後、仏の御弟子・阿難尊者はすぐれた人物であると多くの人に知られるようになったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
柴崎陽子
【校正】
柴崎陽子・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柴崎陽子
ジーザスも、マホメットも、孔子も、ソクラテスも本は書きませんでした。その言葉と生涯をまとめ、流通させたのは彼らの弟子です。釈迦も同じでした。
釈迦の入滅後(涅槃に入った後)、その教えは弟子たちによってまとめられました。釈迦の言葉を知る者たちが一カ所に集まり、それを整理するイベントがあったのです。これを「結集」と呼び、その記念すべき第一回の様子がこの話の中で述べられています。
釈迦の侍従だった阿難は、もっとも多く説法を聞いた人です。だから阿難の話をまとめればお経はできるのですが、実際にはそう簡単ではありませんでした。
年配者である釈迦が侍従に年配者を雇うとは考えられませんから、おそらく阿難はだいぶ若かったと思われます。
たいする迦葉は、年配の修行者でした。かりに過失がなくても、文句のひとつも出てきそうです。
また、阿難はたいへんな美男だったそうで、女性にすごくモテました。ストーカーまがいのことをされたのも一度や二度ではなかったといいます。そのあたりも、こころよく思わない修行者が多かったようです。
迦葉派と阿難派(と呼ぶのが正しいかはわかりませんが)の派閥争いは、大なり小なりあったことでしょう。
お経は多く「如是我聞(にょぜがもん、このように私は聞いた)」という阿難の言葉ではじまります。ここに至るにはいろいろ人間臭い、どろどろしたことがあったようです。
阿羅漢とはそういうものを超越した存在であるはずですが……。
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