巻20第17話 讃岐国人行冥途還来語 第十七
今は昔、讃岐国香水(かがわ)の郡坂田の郷(香川県高松市)に、一人の富人がありました。姓は綾の氏です。妻も同姓でした。
その隣に年老たる嫗(おうな、老婆)が二人ありました。ともに寡(やもめ)であり、子がありませんでした。とても貧しく衣食に乏しい生活を送っていました。常に隣の富家に行き、食を乞うて生きていました。毎日、食事の時間にかならず行って、欠かすことがありません。主人はこれを嫌っていたため、あえて夜半に飯を炊き食べると、その時間にやって来て食を乞いました。
家をあげてこれを嫌っていましたが、妻(家女。夫は入り婿だった)が夫に告げて言いました。
「私は今後、この二人の老嫗を、慈悲をもって、児のように養おうと思います」
夫も同意しました。
「これからは、自分のぶんの飯を彼らにわけてあげることにしよう。自分の宍村(ししむら、肉)を切り取って他に施し、命を救うことは、もっとも勝れた行であるといわれている。ならば、私はそれを実践することにしよう。さっそく妻のぶんの飯をわけてあげなさい」
しかし、家に仕える者は、主人の言にしたがうように見せて、老嫗を嫌って与えませんでした。やがて、多くの人が老嫗を嫌って養わなくなりました。妻はひそかに自分のぶんの飯を与えていましたが、家の人のなかには、嫗を悪くいって、主人に告げ口する者もありました。
「私たち使用人の飯を分け与えて、あの老嫗たちを養っているのです。使用人はおなかがすいてしまい、働くことができません。怠けたいという気持ちも育っています」
そんな告げ口があっても、妻は飯をわけ与え、老嫗を養っていました。
この告げ口する人の中に、釣りを業とする者がありました。海に出て釣りをしていると、釣のしかけに蜿十貝(あんじゅうばい、牡蠣と思われる)がかかってきました。主人はこれを見て、釣人に言いました。
「私がこの蜿を買おう」
釣人は売りませんでした。
「心ある人は、塔寺をつくって善根を修すという。おまえはなぜ私にそれをさせないのか」
釣人は言いました。
「蜿十貝は米五斗(約75キロ)に相当します」
家主はこれにしたがい、これをあがなって、僧に呪願させ、海に放ちました(放生=生き物を逃がすこと。大きな徳とされる)。
その後、この放生した人は、従者といっしょに山に入って薪を切っているとき、枯れた松の木に登り、誤って転落して死にました。死んだのち、ある行者に憑いて言いました。
「私は死んだが、遺体を七日焼かずにおいてくれ」
行者にしたがい、遺体は山から家に運ばれた後、庭に置かれました。
七日のち、この人は生き返り、妻子に語りました。
「私が死んだとき、僧が五人あって、私の前を歩いていた。在俗の人が五人、私の後にあった。道は平らでまっすぐで、墨縄(建築の際などに描く直線)のようだった。道の左右に宝幢(ほうどう、宝ののぼり)が立ち並んでいた。目前に金の宮があった。
『これはどういう宮か』と問うと、後になった俗の人が私を見て言った。
『これは、あなたの妻が住む宮です。老嫗を養った功徳によって、宮がつくられています。あなたは私が誰かわかりませんか』
知らないというと、その人は言った。
『わたしたち僧俗十人は、あなたが買って、海に放った蜿十貝です』
宮の門の左右に、額に角を一本はやした者がいた。大刀で私の首を切り落とそうとしたが、僧俗がこれを防ぎ、切らせなかった。また、門のところでごちそうのいい匂いがしていて、多くの人にふるまっていたが、私はこれを七日間食べられなかった。飢えて、口から火が出るようだった。
『これはあなたが老嫗に食を施さず、嫌っていた罪のためです』
僧俗が私を連れ帰ったと思ったとき、私は生き返っていた」
妻子はこの話を聞いて、喜び貴びました。
人に食を施する功徳は、はかりがたいものです。反対に、施さない罪はこのようなものです。また、放生の功徳は、たいへん貴いものであると、語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
歴史学者・網野善彦によれば、日本に貨幣経済が根づいたのは南北朝時代だそうだ。『今昔物語集』の時代(平安後期)は物々交換が主流であり、ここでも「牡蠣(貝)と米の交換」というかたちで、お金を介さない取引が描かれている。
インドに貨幣経済が浸透したのは紀元前のことであり、紀元ごろにつくられたといわれる『法華経』には商業都市が描かれているから(長者窮子、放蕩むすこ)、相当の開きがあることがわかる。
もっとも、貨幣経済があることが優れているわけじゃない。貨幣を持たなくとも、アンデス文明は16世紀まで続いたのだ。
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