巻28第1話 近衛舎人共稲荷詣重方値女語 第一
今は昔、二月の初午の日は、昔から都中の身分の上中下問わずみんなが稲荷詣といって伏見にお参りに集まる日でした。
それについて、いつもより人が多く参詣した年がありました。その日近衛府の舎人たちもお参りしました。尾兼時、下野公助、茨田重方、秦武員、茨田為国、軽部公友などというすぐれた舎人たちが、軽食入れやお弁当箱、酒などを使用人に持たせ、連れだって参詣しましたときに、中の御社に近づいてくると、参詣する人やお参りを終えて帰る人がさまざま行き交った中に、なんともいえずきれいな衣装を着た女に出会ったのでした。濃い紫の上の衣に、紅梅や萌黄などの着物を重ねて着て、色っぽい感じで歩いていました。
この舎人たちが来たので、女がさっと木の下に走って隠れて立っていたのを、この舎人たちは下卑た冷やかし文句などを言いかけたり、身を低くして下から女の顔を覗こうとしたりしながら通り過ぎていきます。そのときに、重方はもともと女好きなタイプの人で、妻もいつもやきもちをやいていたのを、そんなことはないなどといってもめているような人だったので、重方はみんなの中で一人目立って立ち止まって、この女に目をつけて行きました。そうしているうちに近くに寄ってあれこれ話しかけてナンパしていると、女は答えて言いました。「奥方のいらっしゃるような人の、ゆきずりの浮気心でおっしゃるようなことを相手にする方がおかしいわ」という声がまたなんとも魅力的です。
重方は言いました。「ねえねえ彼女。しょうもない妻はおりますが、サル顔で、心も行商の女みたいなもんでね。別れたいと思ってるんだけど、すぐにお世話してくれる人がいないのも具合が悪いもんで、いいなと思うような人に出会えたら、すぐ乗り換えようとマジで思っていたので、このように申し上げているんです」と言うと、女は「それは本当のことをおっしゃっているの? 冗談をおっしゃっているの?」と問いました。重方は「この神社の神もお聞きになってくださいませ。長年思っていることを。こうしてお参りしたご利益があって、神がお恵み下さったと思うと、本当にうれしいこと。それで、あなたは独り身ですか? そしてどこ住みの方なんですか?」と問うと、女は「私も、あんまりいい夫にめぐりあえずつまんない夫がおり、宮仕えをしていたのですが、その夫がやめるようにいうのでお勤めをしなくなりました。それが、その夫も田舎で亡くなって、この三年は「誰か頼れる人がいたらなあ」とこの神社にお参りしていたのです。本当に私を思っていらっしゃるのなら、住まいをお教えしましょう。いやいや、行きずりの人がおっしゃるようなことを真に受けるなんてばかばかしいわね。早くお行きなさいまし。私も失礼いたします」と言って、さっと行ってしまおうとしました。それで重方は手をすりあわせて額に当てて「神様お助けください! こんな情けないことをお聞かせくださいますな。このまますぐ、この場からあなたの家に参上して、二度と家に帰りますまい」といって、平身低頭頼み込むその髻を、烏帽子ごとこの女はがっつりつかんで、重方の頬をすぱーんと山にまで響くほど平手打ちしたのです。
その時重方は心底驚いて、「これはなんたることをなさいますか」と言って顔を上げて女の顔を見ると、なんたることか、自分の妻の計略だったのです。重方は呆れかえって「あんたは頭がおかしくなったのか」と言うと、女は「アンタはなんでこんなやましいことをするのか。ここにいるみなさんが、『やましいことばっかりするやつだ』と来るたび教えてくれるので、『私にやきもちをやかせようと思ってそんなことを言うのね』と思って信じていなかったのに、本当に言われていた通りだったとは。あんたが言ったように、京からは私のとこに来たら、この稲荷神社の罰が当たるわね。なんであんなことを言ったのか。横っ面ひっぱたいて通りがかりの人たちに見せて笑いものにしてやろうと思うぞ。こんちくしょうめ」と言うので、重方は「そうかっかすんなよ、ほんとその通りだよ」と笑ってなだめすかしましたが、全く許さないのです。
そうこうしている間、他の舎人たちはこの出来事を知らないで、上の崖に上り立って、「なんで田府生(茨田重方)は遅れているのかな」と言って振り返ると、女とつかみ合って立っています。「あれはどうしたことか」と言って、戻っていって近付いてみると、妻に引っぱたかれてうなだれ立っています。そこで舎人たちは「ようやりましたね。だからずっと言っていたでしょう」とやんややんやとほめそやした時に、女はこう言われて、「このみなさんのご覧の通り、こうしてあんたのくだらない心を暴いてやったのよ」と言って、つかんでいた髻を放したので、重方はくちゃくちゃになった烏帽子を整えなどして上の方にお参りしました。女は重方に「あんたはその好きになった女のところに行け。私のところに来たら、絶対に足をへしおってやろうってもんよ」と言って、下って行ってしまいました。
さてその後、あれほどよく言ったものの、重方が家に帰ってきてなだめたりすかしたりしたので、妻の腹立ちもおさまってきたところ、重方いわく「あんたはやっぱり重方の妻だから、あんなふうにすごいことができたんだなあ」と言ったので、妻は「うるさいわ、このばかたれ。目の見えない人みたいに人の気配もそれとわからず、声も聞き分けられないで、アホをさらして人に笑われるなんて、ほんとにアホな話じゃないですか」と、妻にも笑われたのでした。その後このエピソードが世間に知れ渡って、若い貴公子などによく笑われたので、若い貴公子たちがいらっしゃるところでは、重方は逃げ隠れをしていたのでした。
その妻は、重方が亡くなった後、女ざかりの年ごろになって、他の人の妻になっていた、と語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 中嶋庸子
【校正】 中嶋庸子・草野真一
【解説】 中嶋庸子
重方亡きあと、女ざかりの年ごろで再婚しているということで、このエピソードは女がかなり若い時の話と思われます。若くて気の強い妻にやりこめられる重方のトホホ話が面白おかしく描写されています。



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