巻三十第六話 死んだ妻と稲荷で出会った男女の話

巻三十

巻30第6話 大和国人得人娘語 第六

今は昔、国守の□□という人がありました。とてもよい家柄の人でしたが、どういうわけか受領(地方の行政官、裕福になることが多い)で、たいへん豊かですべてがかなうような暮らしをしていました。

その人の妻が懐妊しました。ちょうど同じころ、然るべき所につとめている愛人の女房も妊娠しました。

ふたりとも女子を産みました。(愛人は出産と同時に亡くなってしまい)、守は子供の行く末を思い悩んでいましたが、どうすることできずに、本妻にこの子のことを打ち明けました。妻は気の毒がって言いました。
「では、その子をここに迎えて、育てましょう。姫君に仕える女にすればよいのです」
本妻がこころよくそう申し出てくれたので、守はとても喜んで、乳母とその女子を迎えいれました。障子を隔てて、こちらとあちらで二人の女子を育てる形になりました。

継母(本妻)は心やさしい人でしたから、継子を憎むようなことはなく、我が子にも劣らずかわいがりました。ところが、本妻の乳母はそう思いませんでした。継子を憎み、心中は穏やかではありませんでした。
「どうしてこの子を養わねばならぬのか。亡きものにしたい」
心の内でそう思っておりました。大和の国(奈良県)に住んでいる女が、所用あってこの本妻の乳母のもとによく来ていました。
「継子をこの女にやってしまえばいい」
夜、継子の乳母が深く眠っているすきに、子を奪ってしまいました。

大和の女にはこう言いました。
「この子をどこか人気のないところに棄て、狗(犬)のえさにでもしてください。私はこの子がいるのがいやなのです。ただし、これは絶対にもらしてはなりません。あなたは長年の知り合いで、信頼しているからこそ頼むのです。これは私とあなたの秘密です。心得ておいてください」
そうささやいて子をわたしました。女は子を抱いて大和へと向かいました。夜も昼も通して歩きました。その途上、馬に乗り、従者を多数ひきつれて歩いている女と出会いました。

これは、城下の郡(しきのしも、奈良県磯城郡)の藤大夫(藤原氏の五位)という権勢も財力もある人の妻でした。藤大夫には子がなかったので、これを悲しみ、長谷寺(女性の信仰で有名な寺)に参って、「子を授けてください」と願って還向した帰りでした。

長谷寺(奈良県桜井市)

大和の女は、乳母にいわれたとおり、「この児を棄てよう」と考えていました。しかし、児がかわいらしくいとおしいので、できずにいました。
藤大夫の妻は、下衆女が児を抱いているのを見て、「あの女の子供だろう」と考え、行き過ぎようとしました。ところが、粗末な衣の中に見えるのは、生後百日ほどの女子の、いとおしくかわいらしい姿でした。妻は人に命じ、たずねずにはいられませんでした。
「その児はおまえの子か。かわいらしくいとおしい児だ」
女は答えました。
「これは私の子ではありません。身分の高い人の子ですが、産まれてすぐに母親が亡くなりました。その人が『子を欲しい人に差し上げろ』と申しましたので、そのような人をさがしています」
五位の妻はうれしく思い、言いました。
「私は子がなく、長年、長谷寺に詣でて祈っていた。その甲斐あって出会うことができたのだ。その児を、私にください」
女も喜び、児をさしあげました。妻は児を抱き取りながら問いました。
「この児はどういう人の子なのか。知っておいた方がこの子の将来のためにもいいだろう。聞かせてください。それを聞いたからといって、私は言いふらしたりすることはない」

妻は着ている美しい衣を脱いで女にやりました。女は思いがけず衣を得て、おおいに喜びました。下衆のあさましさか、乳母の言ったことも守らず、「決して言わないということなら、申しあげましょう。うわさにでもなって、主人の耳に入ったらと思って言えなかったのです」と言って、決して口外しない約束をして、伝えました。

このとき、妻は女から「誰々の子だ」と聞きました。身分の低い者ではなかったのだと思うとますますうれしくて、これは観音(長谷寺は観音信仰の寺)に祈願したおかげだと思いました。もし、女が取り返したくなったら困ると思いましたから、逃げるようにその場を離れました。

長谷寺本尊十一面観音像

児はひきとられ、藤大夫夫妻は心を尽して養いました。

元の親の家では、子供がとつぜんいなくなったので、どこに行ったのか大騒ぎになりました。しかし結局見つからず、やがて静かになりました。以降はますます本妻が産んだ姫君を宝物のように大切に育てるようになりました。十五、六歳になったころ、右近少将(禁中の警護に当たる役職だが、平安時代には名誉職になっていた)の□□という、若くて美しく心ばえもよい人を聟にとって、とても大事に扱いました。

姫君は姿かたちもありさまも美しかったので、少将とはたがいに相思い、片時も離れることはありませんでした。ところがしばらくすると、姫君は病を得て、長くわずらいました。祈祷もおこないましたが、父母の思いはとどかず、亡くなりました。父母の悲しみはいかほどだったでしょうか。

少将は恋い悲しみ、生きている甲斐がないと思いました。妻をとろうともせず、宮仕えにも身が入りませんでした。いつも「どこかにあの人に似た人はいないだろうか」と思っていました。

一方、大和の人は、年月を経て、美しく成長しました。姿かたち・ありさまは、亡くなった姫君さえしのぐほどでした。

ある日、大和の人は、七条(京都市東山区)辺で産まれましたから、二月の初午(はつうま、稲荷神の縁日)に産神の伏見稲荷に詣でるといって、大和から京に上り、歩いて参詣しました。少将もまた、心をなぐさめようとして、稲荷参りをしていました。このとき、二人は出会いました。
少将が見ると、姿かたちやありさまが美しく、着物をかわいらしく着た女性がありました。年齢は十七、八でしょうか。気高くきよげであり、気品がありました。なにげなく仰いだその顔を笠の下から見ると、亡くなったあの人によく似ています。いや、すこし似通っているが、この女のほうがうつくしいと思いました。

伏見稲荷大社楼門(重要文化財)

彼女のすがたを見ると、少将は目がくらみ心が騒ぎました。小舎人童(こどねりわらわ、少年の召使い)を呼び、「この人がどこに行くか、見ておけ」と命じました。
童があとをつけていくと、女の共の者が気色ばんで言いました。
「おまえは誰だ。なぜついてくる。あやしいやつだ」
童は笑いながら答えました。
「あそこにいらっしゃる少将に、『どこに行くか、見ておけ』と命じられたからだ」
共の者は言いました。
「住んでいるところを明かすわけにはいかない。ただ『畳の裏』とだけ答えよ」
童は伝えました。少将はまったくわからず、女もそれっきりになってしまったので、たずねることもできずにおりました。

あるとき、少将の家に高名な学者がやってくることがありました。話のついでに、少将は問いました。
「『畳の裏』とはどういう意味ですか」
「『畳の裏』とは、大和の城下というところだと、古い記録にあります」
少将はこれを聞いてとても喜びました。手がかりが得られたからです。以前は雲をつかむような話でした。少将はすっかり心を奪われていたのです。

「行ってみよう」と考え、例の小舎人童と、大和のあたりを知っている侍を一人、舎人男(とねりおとこ、召使い)一人を共として、馬に乗り、こっそりと大和へ立ちました。

城下というところを尋ねてみましたが、まったくわかりませんでした。ただ、檜垣をゆるやかに差しまわした大きな家がありました。
「この家ではないか」
そう思って馬より下りて、門前に立つと、小舎人童が稲荷詣でのとき見た女の子が家から出てくるのを見つけました。
(下文欠)

【原文】

巻30第6話 大和国人得人娘語 第六
今昔物語集 巻30第6話 大和国人得人娘語 第六 今昔、□□の守□□の□□と云ふ人有けり。此の人、家高き君達にて有けれども、何なる事にか有けむ、受領にて有ければ、家豊にして万づ叶ひてなむ有ける。

【翻訳】 葵ゆり

【校正】 葵ゆり・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 葵ゆり

物語は中途で終わっている。本集成が成立したころから欠脱していたらしい。

謎の文句「畳の裏」は「敷物の下」、すなわち「しきのしも」を表すのではないかという意見が強い(推測の域を出ない)。

少将が迷ったのは、城下郡がとても広かったためだ。

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