巻30第8話 大納言娘被取内舎人語 第八
今は昔、□□天皇の御代に、大納言□□という人がありました。たくさんの子の中に、姿かたちがとくに美しい女子がひとりありました。父の大納言は彼女をことのほか愛し、片時も離すことなく養いました。天皇の妻にしようと考えていました。大納言の家には、内舎人(うどねり)の□という者が、仕えておりました。
縁があったのでしょう。その家の入立(いりたち、女子の詰め所)の近くにつとめていたとき、姫君の姿を見てしまいました。姿かたちの美しさ、有様や気配はこの世のものではないように思われました。男はたちまちに愛欲の心を起こし、思ってはならない身分でしたが、夜につけ昼につけ姫君の姿を思い、その他のことはまったく考えられませんでした。どうにかして姫君に会いたいと考え、ついには病にかかりました。物も食べられず、ただ死を待つばかりになりました。
思い悩んだあげく、姫君に仕える女に言いました。
「殿に大事な要件があります。殿に申し上げる前に、姫御前に申し上げたいと思っています。そう伝えてください」
「何を申し上げるのですか」
「たいへんな密事(みそかごと)なので、人づてには伝えられません。私は長く殿に仕え、家に出入りすることを許されている身です。恐れ多いことですが、姫君が家の端に立たれたならば、直接、こと細かに申しあげたいと思います」
女はこれを聞くと、姫君に「こう言っている者があります」とこっそり伝えました。
姫君は言いました。
「たしかにその男は長く仕えている者です。心配はいらないでしょう。会って聞きましょう」
女がこれを伝えると、大喜びしたものの、はげしく胸が騒ぎます。
「これ以上この世にいたいとは思わない。姫君を奪い、本意を遂げて、身を投げて死のう」
そう決心したからこそ、この話もできたのでした。
男はこの世にあるのも残り少なく思えて、心細く悲しく思いましたが、思いは止められませんでした。
「あの事はどうなりましたか。急いで伝えたいのです」と女をせきたてました。女はこれを姫君に申し上げ、姫君は疑いも抱かず、妻戸(家の端にある戸)のすだれのもとに立ち、話を聞こうとしました。
夜なので人もありません。男は、縁のそばに寄りましたが、とりたてて申し上げることもなく、しばらくはそこにいました。
「われながらとんでもないことを考えたものだ。これで私はおしまいだ」
思いは絶ちがたく「やるだけやって死のう」と考え、男はすだれの内に飛入り、姫君をかき抱き、飛ぶようにして、その家を出てはるかに去り、人のいない所に行きました。
姫君がいなくなって、大納言以下、家の上中下の人は大騒ぎになりました。とはいえ、誰かに尋ねることもできず、そのままにせざるを得ませんでした。内舎人の男はその夜から姿をくらましていましたが、内舎人が連れ去ったとは考えられませんでした。
「誰か身分の高い人に誘われたのかもしれない」
多くの人はそう疑いました。姫君に会えるよう男との間をとりもった女は、男が姫を抱いて逃げるのを見ていましたが、巻き込まれるのを恐れて言いませんでした。
内舎人は「これが知れたら、私は破滅だ」と考え、「京にはいられない。遠くへ行こう。野であろうと山であろうと姫君をつれて行くのだ」と思いました。
姫君を馬に乗せ、自分も馬に乗り、調度をたずさえて、陸奥国(東北地方)に行きました。親しく仕えていた従者二人をつれて参りました。
夜も昼も旅を続け、陸奥国の安積の郡(福島県郡山市)の安積という山の中に行き着きました。
「ここなら追っ手がくることはないだろう」
木を伐って庵を造り、そこに姫君をすえ、自分は従者とともに里に出て、食物を得ました。
年月が経ちました。夫が里に出たときには、女はひとりで庵にいました。やがて、女は懐妊しました。男が食を求めるために里に出ると、四、五日は帰らなかったので、女は心細く待っていなければなりませんでした。ある日、庵を出て歩いていると、山の北に浅い井戸がありました。自分の姿が井戸の水にうつるのを見て驚きました。鏡を見ることがなかったので、どんな顔になっているか知らなかったのです。水にうつった姿は、とても恐ろしげでした。恥ずかしく思い、独言で詠みました。
あさか山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは
(わたしの姿をうつしたこの安積の山の浅い山の井のような底の浅い思いをあなたに対して抱いているわけではありません)
これを木に書きつけて庵に帰りました。家にあったとき、父母には愛され多くの人にかしずかれ、とても恵まれた暮らしをしていたことを思い出し、かぎりなく心細く思いました。
「どんな前世の報いだろう」
そう思うと堪えられませんでした。やがて、思いつめて死にました。
男が里で食物などを求め、従者に持たせて帰ってくると、女は死んで倒れていました。とても驚き、かなしく思っていると、山の井で、木に書きつけられた歌を見つけました。ますます恋い悲しんで、庵に帰り、死んだ妻の傍に添い臥して、思いながら死にました。
この話は従者の語り伝えたものでしょう。むかしの話だといいます。
「女はたとえ従者でも、男には心を許してはならない」と語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 葵ゆり
【校正】 葵ゆり・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 葵ゆり
姫を恋するあまり誘拐して逃亡した内舎人の話。
『大和物語』に同じ話がある。舞台となった安積山には山の井伝説がある。
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