巻17第5話 依夢告従泥中掘出地蔵語 第五
今は昔、陸奥(東北地方太平洋岸)の前司(前任の国司)に、平朝臣孝義(たいらのあそんたかよし、朝臣は姓の敬称)という人がありました。その家に仕える人で、字(あざな)を藤二という人がありました。本名はわかりません。
孝義が国司としてかの国に参るとき、先に検田(耕作地の面積や耕作者などを調査すること)のために、藤二を派遣しました。検田していると、田の泥の中に一尺(約30センチ)ほどの地蔵菩薩の像が半ば埋まっていました。藤二はこれを見て驚き、急いで馬から降りて引きだそうとしましたが、まるで重い石のようで、引き出すことができません。人数を集めてひっぱりましたが、出すことができませんでした。
藤二は怪しく思い、心の中で念じました。
「この地蔵菩薩は、引き出すことができないほどの大きさではない。にもかかわらず出せないのは、何か理由があるのだろう。もしそうであれば、かならず今夜、夢に現れてください」
その夜、夢に美しい子どもの僧が現れて告げました。
「私は泥の中にある。そこは寺の跡なのだ。古くなったために破損し、多くの仏菩薩の像が泥の中に埋まったままになっている。それをすべて掘り出してほしい。そのとき、私も一緒に出よう」
藤二は驚き、怖れました。翌朝、幾人かの人をともなってその場所に行き、鋤や鍬で掘らせると、夢の告にあったように、五十体の仏菩薩の像が埋まっていました。それらを掘り出すと、地蔵菩薩も出すことができました。
藤二とその近辺の人は、これを見て貴び、喜びました。粗末な草堂を建て、掘り起こした仏菩薩を安置しました。
藤二はとくに地蔵菩薩像に深く帰依し、これをともなって京に上りました。親しくしている方に六波羅の寿久聖人という人があったので、彼の房に奉ることになりました。寿久聖人はこの地蔵の縁起(話)を聞き、貴く思って、あらためて彩色をほどこし、房に安置して、朝暮に恭敬供養しました。
その地蔵は今でも六波羅蜜寺にあると伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
東北地方の話。
東北で力を持っていた奥州藤原氏は独自に大陸と交易し、ときの大和朝廷よりずっと豊かだったという。そういう独自勢力の存在を許していたのは、支配が行きとどかなかったためだ。
『今昔物語集』には歴史書としての側面があるが、東北地方を舞台とした長期にわたる戦乱「前九年の役」(1051~1062)に関しては記載がある(巻二十五第十三話)が、その後に起こった東北の戦乱「後三年の役」(1083~1087)については記述がない。ゆえに、成立はその間だろうといわれている。
この話の舞台である陸奥の国がやたらと広い(東北地方の太平洋側すべて)のも、うまく徴税できなかったからだろう。行政単位として広くても問題なかったのだ。
夢に出てきたら信じるんだけどな。
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