巻25第2話 藤原純友依海賊被誅語
今は昔、朱雀天皇の御代に、伊予掾(いよのじょう・現在の愛媛県、その三等官)藤原純友(ふじわらのすみとも)という者がいました。
筑前守(ちくぜんのかみ・現在の福岡県の一部の国司)良範(よしのり)という人の子であります。
純友は伊予国にあって、多くの勇猛な武士を集めて配下とし、弓矢を帯び、船に乗って常に海へ出て、西の諸国から上京する船荷を奪い、人を殺すことをなりわいにしていました。そこで行き交う者は容易に船が使えず、誰も船に乗ろうとしませんでした。
このため、西の諸国から上申書を奉り、「伊予掾純友は悪行を事とし、略奪を好み、常に海上にあって、諸国往来の船荷を奪い取り、人を殺めております。これは朝家・人民にとって大いなる煩いでございます」と訴えました。
天皇はこれをお聞きになり驚かれ、散位(さんに・位階だけあって官職に就いていない者)橘遠保(たちばなのとおやす)という者に対し、「その純友をすみやかに誅罰せよ」とお命じになりました。
遠保は宣旨(せんじ)を承って伊予国へ下り、四国および山陽道の国々の軍兵を徴集して、純友の住み家へ攻め寄せました。
純友は奮起し、待ち受けて戦いました。
しかし、官軍には勝てず、天罰をこうむって、ついには討たれてしまいました。
また純友の子に、十三になる童がいました。
なかなかの美少年で、名を重太丸(しげたまろ)といいます
まだ幼くとも、父と共に海に出、海賊を好み、大人にも劣りませんでした。
その重太丸をも殺して首を斬り、父の首と二つ持って、天慶四年七月七日、京に上りました。
まず右近の馬場で事の次第を奏上している間、京じゅうの小中下の人びとがこれを大騒ぎで見物しました。
車の置き場もなく、まして歩行者は立ち止まることもできぬほどであります。
天皇はこれをお聞きになって、遠保をお褒めになりました。
その次の日、左衛門(さえもん)の府生(ふしょう・六衛府の下僚)掃守在上(かもりのありかみ)という、物の形を少しも違わず写すことで有名な絵師を内裏に召し、「かの純友と重太丸の二つの首が右近の馬場にある。ただちにそこへ行き、その二つの首のさまを見て、写して持ってまいれ」と、お命じになりました。
これは、かの首を天皇が実際に見たいとお思いになったのですが、内裏に持ち込むわけにもいかないので、こうして絵師をやり、その姿を写して、ご覧になるためであります。
そこで絵師は、右近の馬場に行き、そのさまを見てこれを写し、内裏に持参したところ、天皇は殿上(てんじょう)の間でご覧になりました。
首を描いた絵は、実物にそっくりでありました。
このようにしてご覧になったことを世間ではよく言いませんでした。
さて、首は検非違使(けびいし・京の警備と裁判と司る官)左衛門府生(さえもんのふせい)若江善邦(わかえのよしくに)という者を召して、左の獄舎に下げ渡しました。
遠保には賞を賜りました。
この天皇の御代には、去る承平年中に平将門の謀反事件が発生して、世をあげての重大事がありましたが、その後まもなくまたこの純友が討たれ、このような大事件が打ち続き発生したことを、世間ではさまざまに取り沙汰しました――とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
藤原純友の大叔父は、関白・藤原基経。父は摂政太政大臣・藤原忠平の従兄弟、良範(よしのり)。純友は摂関家の傍流に生まれた。
父・良範は従五位下大宰少弐(じゅごいのげだざいのしょうに)のまま壮年で死に、父の従兄弟・元名(もとな)が伊予守になるにあたって、三等官の掾(じょう)に推挙され、承平2年(932)から承平5年(935)まで在任し、海賊に悩む伊予国で追捕の実績をあげたという。
承平元年(931)から、瀬戸内海では海賊が活動していた。「承平南海賊(じょうへいなんかいぞく)」と呼ばれる彼らは、小野氏彦(おのしげひこ)・紀秋茂(きのあきもち)・津時成(つのときなり)らを首領とする三十余の小集団から成り、6年にわたって、追捕海賊使の派遣や諸国の警固使(けいごし・坂東における押領使に相当する軍事指揮官)に対しても屈服することはなかった。
彼ら海賊は、もともと受領の支配を受けない衛府舎人(下級官人)で、寛平・延喜の国制改革によって儀礼体系が変わり、余剰舎人となった者たちである。朝廷はこの舎人たちを、公田を請け負って官物を納める耕作人・負名(ふみょう)にしようとしたが、従わなかったため、延喜14年(914)に受領に対して衛府舎人の解任権を与え、承平3年(933)には衛府舎人の騒動に対して追捕権が与えられた。
播磨・備前・伊予・讃岐などの瀬戸内の沿海諸国は、衛府の舎人に支給される食糧の進納国に指定されていたので、これら諸国の衛府舎人は、その取得権があるといって納税を拒否し、収納使が来ると群党となって追い返していた。しかし、朝廷の政策によって衛府舎人の肩書と権利を剥奪された富裕層は打撃を受け、徒党を組んで、国衙の倉や船を襲って米を奪った。
承平6年(936)3月、武名をあげた純友に、朝廷は海賊追捕宣旨を与え、伊予国警固使に任じた。そして6月、伊予守兼追捕海賊使として赴任してきた紀淑人(きのよしひと)の寛大な人柄を信頼して、海賊たちは全員、投降した。
この出来事の真相は、淑人より前に伊予に入っていた純友が旧知の海賊衆を説得し、彼らは純友を信頼して一斉に投降した、というものだった。しかし、その勲功は握り潰された。
承平南海賊の平定の過程では、下級武官の人びとが諸国の警固使となって下向し、武勲を上げた。備前の藤原文元(ふじわらのふみもと)、播磨の三善文公(みよしのふみきみ)、讃岐の前山城掾・藤原三辰(ふじわらのみつとし)ら、彼らもそれぞれ内海諸国へ土着した。
彼らの勲功申請は黙殺され、その不満が天慶2年(939)12月の蜂起へと、つながっていく。
天慶2年夏、西国は深刻な干ばつに見舞われた。閏7月、藤原子高(ふじわらさねかた)が備前介に任じられた。子高は税を収奪するために負名たちへ厳しい圧迫を加えたので、備前国を本拠とする藤原文元が武装蜂起する。播磨国でも文元に呼応した三善文公が播磨介の島田惟幹(しまだこれもと)と対峙していた。二人は盟友・純友に助けを求めた。
伊予守・紀淑人から純友が備前方面へ向かったと通報を受けた朝廷は、12月21日、純友召還官符を下した。使者には純友説得のため、甥の明方(あきかた)が加えられた。
純友は甥を介して、朝廷に備前・播磨での紛争の免責と承平南海賊討伐の勲功申請を正当に審査することを要求した。
東国において、将門の乱に全力を注がざるをえない朝廷はそれを飲み、天慶3年(940)正月に除目を行い、純友を従五位下に叙し、他の勲功者も任官した。
純友は叙位のお礼と自己の軍事的実力の誇示のため上洛しようとしたが、将門の早すぎる敗死と盟友たちが任官に満足せず、純友の収拾計画を無視して軍事活動を激化していったことは、誤算だった。
8月、追捕山陽道使・小野好古(おののよしふる)の軍と激突した文元・三辰は追いつめられ、純友に救援を求め、純友は反乱勢力の首領としての立場を明らかにした。
天慶4年(941)、朝廷側に寝返った藤原恒利(ふじわらつねとし)を先導に讃岐から伊予へ朝廷軍が進撃する。このとき讃岐の藤原三辰が殺され、京の西獄門に首が晒された。しかし、純友は忽然と姿を消した。
彼は伊予国・日振島(ひぶりじま)で態勢を立て直し、関門海峡を突破して、大宰府を占拠する。
和平交渉を引き出そうとする純友に対して、朝廷は妥協することなく、陸路から追捕使長官小野好古、海上からは追捕使・主典(さかん・四等官)の大蔵春実(おおくらのはるざね)が迫り、死闘が繰り広げられた。
決戦に敗れた純友たちはそれぞれの本拠地へ逃げ帰っていった。純友は息子・重太丸を伴って伊予に落ち延びたが、伊予警固使の橘遠保に見つかり、捕えられて首を斬られ、7月9日、東西の市で晒された。
将門の乱は坂東制圧から2か月後に鎮圧されたが、純友の乱は完全に終焉するまで、2年近くかかったのだった。
『今昔物語集』のこの説話は、純友の乱の顛末をしるしたもの。しかし最後に、純友の子・重太丸に言及しているのは、第13話の千世童子の最後の話と共に、中世以降の戦記文学で作品の彩りとして一般的に語られる、壮烈な死を遂げた少年勇士に対する称賛と哀惜のエピソードの先駆的な描写でもある。
【参考文献】
日本古典文学全集23『今昔物語集三』小学館
『日本の歴史 第07巻 武士の成長と院政』下向井龍彦著 講談社
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