巻二十五第一話 東国・平将門の乱(その2)

巻二十五

巻25第1話 平将門発謀反被誅語

その1より続く)

このように始終、合戦が行われていましたが、ここに武蔵権守(むさしごんのかみ)興世王(おきよのおう)という者がありました。

これは、将門と心を同じくする者です。

平将門像(茨城県坂東市)

正式に国司に任ぜられたわけではなく、自分勝手に赴任してきました。

その国の郡司がこれを違例のことだといって拒みましたが、興世王はこれを無視し、かえって郡司を罰しました。

そこで郡司は身を隠してしまいました。

これを見たその国の介(すけ・次官)である源経基(みなもとのつねもと)という者が、ひそかに京へ馳せ上り、朝廷に対し、「将門はすでに武蔵権興世王と結んで謀反を起こそうとしております」と、訴えました。

天皇はこれを聞いて驚かれ、事の真偽を尋ねられましたが、将門は無実である旨を申し、常陸・下総・下野・武蔵・上総(現在の茨城・千葉・栃木・東京・埼玉の地域)の五か国の国司が証明した上申書を取り集めて、朝廷に奉りました。

天皇はこれをお聞きになり、将門の正当性を認められ、将門はかえってお褒めにあずかりました。

さてまた、常陸国(ひたちのくに・現在の茨城県)に藤原玄明(ふじわらのはるあき・土豪)という者がいました。

その国の国司は、藤原維幾(ふじわらのこれちか・南家出身で高望王の娘が妻)でありましたが、玄明は何事によらず反抗の態度を示し、租税を国司に納めません。

国司は怒って罰しようとしましたが、どうしようもできません。

ところが、この玄明が将門の配下になり、力を合わせて国司を国庁から追い払いました。国司は、そのままどこかに身を隠してしまいました。

そこで興世王が将門に相談をもちかけました。

「一国を奪い取るだけでも罪は免れまい。だから、同じことなら関東一円を強引に奪い取り、その成り行きをみたらいかがであろう」

こういうと将門は、「いや、わしの考えもまさにそのとおりだ。東八か国をはじめとして都をも奪おうと思っている。いやしくもこの将門は、桓武天皇五代の末孫だ。まず諸国の印鎰(いんやく・印璽と鍵)を奪い取り、受領を京に追い返そうと思う」と言い、謀議が終わって大軍を率い、下野国(しもつけのくに・現在の栃木県)に押し出します。

早くもその国の国庁へ着き、国王即位の儀式を執り行いました。

このとき、国司・藤原弘雅(ふじわらのひろまさ)、前国司・大中臣宗行(だいなかとみのむねゆき)などが国庁にいましたが、まえまえから将門が国を奪おうとする様子を見て取り、進んで将門を拝し、直ちに印鎰を捧げ、地にひざまずいてこれを献じ、逃げ去りました。

将門は、ここから上野国(こうずけのくに・現在の群馬県)へ進みます。

即座に上野介(こうずけのすけ・上野国の次官)藤原尚範(ふじわらのたかのり)の印鎰を奪い、使者をつけて京へ追いやりました。

そして国府を占領し、国庁へ入ります。

陣を固めて諸国の受領を任命する除目(じもく)を行いました。

そのとき、一人の男が神がかりの状態で、「われは八幡大菩薩の御使いなるぞ」と口走りながら、「わが位を蔭子(おんじ・父祖の功によって位階を授けるべき子)平将門に授ける。すみやかに音楽を奏してこれを迎え奉るべし」と告げます。

これを聞いて、将門は二度礼拝しました。

まして彼に従う大勢の軍兵どもは皆、歓声を上げました。

ここに至って、将門は自ら上奏文を作って新皇と称し、これを直ちに朝廷に奏上しました。

そのとき、新皇の弟に将平(まさひら)という者がいました。

新皇へ言うには、「帝王の座につくことは天が与えるところです。このことをよくお考えください」と。

だが新皇は、「わしは弓矢の道に達している。今の世は、討ち勝つ者を君主とするのだ。何の遠慮があろう」と言って承知せず、直ちに諸国の受領を任命しました。

下野守には弟の将頼(まさより)、上野守には多治常明(たじのつねあき)、常陸介には藤原玄茂(ふじわらのはるもち)、上総介には興世王、安房守には文屋好立(ふんやのよしたつ)、相模介には平将文(たいらのまさぶみ)、伊豆守には平将武(たいらのまさたけ)、下総守には平将為(たいらのまさなり)等であります。

また、都を下総国の南の亭に建設するよう議定しました。

また、磯津(いそつ)の橋を京の山崎の橋に見なし、相馬郡の大井の津を京の大津に見立てました。

そして、左右の大臣・納言・参議・百官・六弁・八史など、みな定めます。

天皇の印や太政官の印を鋳造するための寸法・字体も定めました。

ただし、暦博士については、どうしようもなかったようでした。

その3に続く)

平将門像(東京都千代田区、築土神社)

【原文】

巻25第1話 平将門発謀反被誅語 第一
今昔物語集 巻25第1話 平将門発謀反被誅語 第一 今昔、朱雀院の御時に、東国に平将門と云ふ兵有けり。此れは柏原の天皇の御孫に高望王と申ける人の子に、鎮守府の将軍良持と云ける人の子也。将門、常陸・下総の国に住して、弓箭を以て身の荘(かざり)として、多の猛き兵を集て伴として、合戦を以て業とす。

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

平将門とその一族

神代の時代から皇親の臣籍降下は行われていたが、奈良時代の律令制度では、臣籍降下は第六世からと「継嗣令」で決められていた。けれども、聖武天皇以後の放漫財政策で諸国が疲弊し、皇室財政がひっ迫、皇子・皇女に対して皇親としての財政的な待遇が出来なくなった。そこで「自分で喰っていけ」というわけで、中世に大寺の門跡になるということが行われるまで、平安時代、嵯峨天皇の頃より頻繁に臣籍降下がなされ、室町時代末期までに、源氏が21流、平氏が4流、成立する。

そして、平氏4流のうち、子孫が繁栄したのは桓武平氏のみである。

桓武平氏といっても17流あり、その中で最も有名なのが、桓武天皇の五男・葛原(かずらはら)親王の系統で、その子息・高見王、高見王の子・高望王、改め平高望の系統である。

平高望には息子が五人おり、長男・国香、次男・良兼、三男・良将(良持ともいう)、五男・良文、六男・良茂という。

将門は三男・良将の子で、敵となった貞盛は長男・国香の子。彼らは従兄弟同士である。

将門の乱の後、貞盛は朝廷に仕え、その四男・維衡が本拠地を伊勢に移し、その子孫から平清盛が出た。

東国に残った諸流から、北条、三浦、熊谷、土肥などが出、これらの氏は源平の合戦で清和源氏の源頼朝に従い、伊勢平氏と戦ったのだった。

『将門記(しょうもんき)』は、将門を当代随一の武芸によって坂東の王まで登りつめ、その武芸によって身を滅ぼした悲劇的英雄として描く。著者である文人貴族は、乱の平定直後の天慶3年(940)6月に、国衙からの報告書や将門たちの訴訟記録、将門の摂政・藤原忠平宛の書状などをもとに書き上げた。『今昔物語集』では、他の資料も加えつつ、『将門記』の内容を大幅に要約している。

平将門は15、6歳の頃、京へ上り、藤原氏の氏の上である藤原忠平と主従関係を結んで、私君とした。宮中警護にあたる滝口の衛士を勤め、12年ほど在京して東国へ帰った。

武芸に優れているだけでなく、教養豊かな知識人であったという。そのような人物でも、藤原氏が勢力を誇る都では、用いられることはなかった。

失望して帰郷した将門を待っていたのは、親族による争乱であった。

将門と叔父・従兄弟たちとの争いの原因は、『将門記』によれば、叔父・良兼の娘との結婚話のこじれ。『今昔物語集』では、父の遺領をめぐって争ったとあり、近年の研究では、将門が押さえる交通利権の争奪も要因の1つだったのではないかと言われている。

将門の本拠地である下総豊田・猿島郡は低湿地で叔父たちの所領より生産性が低かったが、将門の領地は坂東の水上交通の要地であった。

この一族間の争いは、私闘であると朝廷が裁可し、武名の高い将門に坂東の治安維持を期待した。

平氏の私闘が国家的反乱となるのは、天慶2年(939)、常陸の藤原玄明という在地領主が国司と対立し、将門に助けを求めてきたことに端を発する。

根底には、税と自分の財を増やすために苛政を行う国司、つまり受領たちと、地元に根を張る郡司層との対立があった。

常陸国府にいた貞盛と合戦した将門は勝利し、国府を占領してしまう。そして興世王の勧めで、関東諸国の国府を次々と襲撃し、関東一円を支配下に収めて『新皇』を称し、独立を宣言するのだった。

【参考文献】

小学館 古典文学全集23『今昔物語集三』

『天皇家と源氏』奥富敬之著、三一書房

『日本の歴史 第07巻 武士の成長と院政』下向井龍彦著、講談社

『なぜ、地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか』千田稔監修、洋泉社

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