巻25第8話 源頼親朝臣令罸清原□□語 第八(欠文)
【解説】 柳瀬照美
本話は、表題だけをとどめる本文欠話。
表題から推測すると、寛仁元年(1017)3月8日、源頼親(みなもとのよりちか)が郎等に命じて、前大宰少監・清原致信(きよはらのむねのぶ)を殺害させた事件を伝えた話。
源頼親は、清和源氏・源満仲の次男で、源頼光の異母弟。
母は藤原致忠の娘で道長の家司・藤原保昌の異母姉妹だったので、保昌の甥にあたる。
兄・頼光と同じく藤原道長に奉仕し、検非違使、左兵衛尉、左衛門尉を務め、大和守・周防守・淡路守・信濃守・伊勢守を歴任した。
最終官位は、正四位下。
頼親は若い頃から武人として名を挙げており、正暦3年(994)に、叔父・満政、弟・頼信、平維将らと共に官職と無関係に「武勇人」として盗賊の追捕のため、動員されている。また、長徳2年(996)、5月の伊周・隆家配流における内裏警護でも、兄の頼光や平氏の武将たちと共に召集を受けている。
長兄の頼光が父から摂津国多田を受け継いだ一方で、頼親は同じ摂津国豊島郡の所領を継ぎ、地盤としていたが、そこは兄の所領と近く、大きく発展することは難しかった。
そこで頼親は独自の拠点の構築を急ぎ、受領として就任した大和国に新しい本拠地を定めた。(大和守になったのは、寛弘3年(1006)、長元4年(1031)、永承2年(1047)の3度)
このことにより、事件が起きる。
大和国には、春日大社・興福寺・東大寺などが所領を持ち、強勢を誇っていた。頼親はそれらの勢力と争うことになる。
寛弘3年(1006)、興福寺と頼親の対立に際して、従者の右馬允・当麻為頼(たいまのためより)が僧房などに放火した。
その為頼は、大和守だった藤原保昌の郎等・清原致信に殺害されている。
そして寛仁元年(1017)、後一条天皇の行幸が行われた日の夕刻、六角・富小路の家が武装集団に襲撃され、住人の清原致信が殺害された。
検非違使の捜査の結果、実行犯の一人に源頼親の従者・秦氏元(はたのうじもと)の子がいたことで、頼親がこの事件の実行犯であるとされた。
清原致忠を襲ったのは、当麻為頼殺害の報復であった。
この報告を受けた道長は、『御堂関白記』に頼親を「殺人の上手」と書き記した。
兵の家の武士たちの力を利用しながらも、血と死の穢れを嫌う貴族たちは一種冷たい視線で彼らを見ていた。
被害者・加害者の主、藤原保昌と源頼親は、おじと甥。そして、この襲撃事件で殺害された清原致信は清少納言の兄で、父・満仲と親交のあった歌人の清原元輔の息子だった。
自力救済的な時代とはいえ、皮肉なことである。
その後、頼親は三度めの大和守就任となる。
勤めて3年め、任期を残すところ1年の永承4年(1049)に、息子・頼房が興福寺の僧徒を殺害したことから、興福寺に訴えられ、翌年、頼親は土佐国に、頼房は隠岐に流罪となった。
一説によれば、7年後に赦免され、本位に復し、摂津豊島郡で没したともいう。
〈『今昔物語集』関連説話〉
清原元輔:巻28「歌読元輔賀茂祭に一条大路を渡る語第六」
源満仲:巻19「摂津守源満仲出家する語第四」
源頼光:巻25「春宮の大進源頼光の朝臣狐を射る語第六」
藤原保昌:巻25「藤原保昌の朝臣盗人の袴垂に値ふ語第七」




【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『源満仲・頼光―殺生放逸 朝家の守護―』元木泰雄著、ミネルヴァ書房
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