巻二十八第六話 清原元輔、賀茂の祭りで落馬する

巻二十八

巻28第6話 歌読元輔賀茂祭渡一条大路語 第六

今は昔、清原元輔(きよはらのもとすけ)という歌人がいました。
それが内蔵助(くらのすけ・宮中の御用物の調達にあたった内蔵寮の次官)になって賀茂祭奉幣使を務めたのですが、一条大路を通っているとき、□□の若い殿上人がたくさん車を立て並べて見物している前にさしかかるや、元輔の乗った飾り馬が何かにひどくつまずいて、元輔は頭から真っ逆さまに落ちたのでした。

年寄りが馬から落ちたので、見物していた公達は気の毒なことだと見ていると、元輔はすばやく起き上がりました。
しかし冠が落ちてしまい、あらわになった頭を見れば、髻(もとどり)が全然ありません。
まるでお盆を被ったかのようであります。
馬の口取りがあわてうろたえ、冠を拾って手渡しましたが、元輔はその冠を着けようともせず、後ろ手に制して、「これ、うろたえるな。しばし待て。公達に申し上げるべきことがある」と言って、殿上人の車の方に歩み寄ります。
ちょうど夕日がさしていたので、頭はきらきらと輝き、見苦しいことこの上ありません。
大路の者は黒山のように駆け集まり大騒ぎをして見物しています。
車の者も桟敷の者も、みな伸び上って爆笑しました。

そうしている間にも元輔は、やおら公達の車のそばに歩み寄り、「公達方は元輔が馬から落ちて冠を落としたのをうつけ者と思いなされるか。それは、お心得違いでござる。
そのゆえは、思慮深い方さえ、物につまずいて倒れるのは普通のことでございまするに、まして、馬は思慮あるわけのものでもございませぬ。その上、この大路は石がえらくでこぼこしております。また、手綱を強く引いておるので、馬の歩こうと思う方にも歩かせられず、あちらこちら引き回すことになります。そこで、心ならずも倒れた馬を、憎い奴と思うわけにはゆきませぬ。
馬が石につまずいて倒れるのをどうすることができましょうぞ。唐鞍(からくら)は皿のように平らであります。どんな物でも、うまく載せられるはずがありませぬ。
その上に、馬がひどくつまずいたから落ちました。これもまた悪いことではありませぬ。
また、冠の落ちたのは、冠というのは紐でひっかけてゆわえつけるものではありませぬ。冠の巾子(こじ・髻を差しいれる部分)の中にかき入れた髪で、冠は頭に止まるものであります。だが、わしの鬢(びん)は、もうすっかりなくなっております。それゆえ、落ちた冠を恨む筋合いでもありません。
また、これに先例がないわけでもございませぬ。□□大臣は、大嘗会(だいじょうえ)の御禊の日に落とされました。また□□中納言は、某年の野の行幸に落とされました。□□中将は、賀茂祭の翌日、紫野で落とされました。
かような先例は、数えられぬほどございます。
されば、事情もお知りなさらぬ近頃の若公達は、これを笑いなさるべきではございませぬ。笑いなさる公達の方こそ、かえって、うつけというべきでござろう」
と、こう言いながら、車一つ一つに向かって指を折って数え上げ、言い聞かせます。
こう言い終わってから遠くに立ちのき、大路の真ん中に突っ立って、大声で、「冠を持ってまいれ」と命じ、冠を取って被りました。
そのとき、これを見ていた者は、いっせいに爆笑しました。

また、冠を拾って渡そうと近づいた馬の口取りが、「馬から落ちなさって、すぐ御冠をお着けなさらず、どうして長々とやくたいもないことを仰せられたのですか」と尋ねると、元輔は、「ばかなことを言うな、おまえ。かように物の道理を言い聞かせてやってこそ、以後、この公達は笑わぬようになろう。さもなくば、口さがない公達はいつまでも笑うであろうぞ」と言って、行列に加わりました。

この元輔は世慣れた人物で、おかしなことを言って人を笑わせることばかりするじいさまだったので、かように臆面もなくしゃべったのだ、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻28第6話 歌読元輔賀茂祭渡一条大路語 第六
今昔物語集 巻28第6話 歌読元輔賀茂祭渡一条大路語 第六 今昔、清原の元輔と云ふ歌読有けり。其れが内蔵の助に成て、賀茂の祭の使しけるに、一条の大路渡る程に、□の若き殿上人の車、数(あまた)並立て、物見ける前を渡る間に、元輔が乗たる庄(かざり)馬、大躓して、元輔、頭を逆様にして落ぬ。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

当時、賀茂祭の奉幣使一行の行列は華麗をきわめ、それを見るために毎年大勢の見物人がつめかけた。
事件の場となった一条大路といえば、大内裏の北にある大道だが、あまり整備されていなかったようだ。
こともあろうに、奉幣使の元輔はその大路を渡っているときに落馬して冠を飛ばし、禿頭をさらしてしまった。
平安時代、冠を脱いで頭頂をさらすのは人前で裸になるも同然のこととされ、たいそう恥ずかしいことであった。
にもかかわらず、元輔は泰然自若として、笑った公達に説教して回ったという笑話。

「をかし」の文学『枕草子』を著した清少納言の父らしい逸話である。

清原元輔(908-990)は、歌人の清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫。40代だった村上朝の頃から歌人として名高く、天暦5年(951)に撰和歌所寄人に任ぜられ、梨壺の五人のひとりとして『万葉集』の訓読作業や『後撰和歌集』の編纂にあたった。

存命中も死後も歌人として高名で、藤原公任による『三十六歌仙』や藤原定家の『百人一首』にも選ばれている。

「三十六歌仙額」清原元輔

元輔没後の一条朝で、女房勤めした清少納言が、「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって許された逸話が『枕草子』にある。

官吏としても有能で、少・中監物、大蔵・民部少丞を経て、円融朝には従五位下・河内権守に任ぜられ、次いで周防守となり、貨幣の鋳造を監督する鋳銭長官も兼任した。
寛和2年(986)、従五位上となった元輔は、79歳の高齢で肥後守を任ぜられて九州に赴いた。

元輔は、清和源氏の源満仲(みなもとのみつなか)とも交流があり、肥後守となって任国に下る際、和歌を交わしている。(『拾遺和歌集』)

 元輔
いかばかり 思ふらんとか 思ふらむ
老いて別るる 遠き別れを

 返し 源満仲朝臣
君はよし 行末遠し とまる身の
待つほどいかが あらんとすらむ

老いた身で、友人と呼べる相手はまれである。
このとき満仲も高齢であり、翌年には出家している。
そして元輔は危惧したとおり、赴任5年目に任地で没した。

けれどもこの友人同士、二人の死後三十年ののちに、彼らの息子たちは殺人事件の加害者と被害者となる。
不思議なえにしである。


〈『今昔物語集』関連説話〉
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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』
『源満仲・頼光―殺生放逸 朝家の守護』元木泰雄著、ミネルヴァ書房

巻二十八
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今昔物語集 現代語訳

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