巻二十八第三十一話 藤原清廉、猫を怖れて大金を支払う

巻二十八

巻28第31話 大蔵大夫藤原清廉怖猫語 第卅一

今は昔、大蔵丞(おおくらのじょう・大蔵省の三等官)から従五位下に昇進した藤原清廉(ふじわらのきよかど)という者がいました。
大蔵大夫(おおくらのたいふ)と呼ばれていました。
この男は前世が鼠ででもあったのか、ひどく猫を怖がりました。
そこで、この清廉の行く先々で、いたずら好きの若者たちは清廉を見つけようものなら、猫を持ち出して見せます。
清廉は猫さえ見れば、どんな大切な用事で行った所でも、顔を覆って逃げ出しました。
それで、世間の人は猫怖じの大夫とあだ名をつけました。

ところで、この清廉は山城(やましろ・京都府南部)・大和(やまと・奈良県)・伊賀(いが・三重県西部)の三か所に田をたくさん作って、たいそうな物持ちでありましたが、藤原輔公朝臣(ふじわらのすけきみのあそん)が大和守のとき、清廉はその国の租税の米をまったく納めませんでした。
そこで守は、「どうやってこれを徴収しようか」と考えましたが、清廉はまったくの卑しい田舎者などでもなく、京で長年、官途に就いていた功労で五位を賜り、京でもなにかと顔をきかせている者だから、検非違使(けびいし・警察と裁判を担当する職)庁などに突き出すわけにもいきません。
だからといって、寛大に扱っていれば、図太い奴なので、なんのかのと言ってまったく納めようとはしません。
「どうしたものか」と思いめぐらした結果、いいことを思いつきました。
ちょうどそこへ、清廉がやってきました。

守は一計を案じ、侍が宿直(とのい)する四方が完全に壁で囲まれた二間ほどの壺屋(つぼや)に、一人で入って坐りました。
そして、「さあ、大蔵大夫どの、ここへおいでなされ。そっとお耳に入れたいことがございます」と召使に呼ばせると、清廉は、いつもは仏頂面で憎たらしい様子をしている守が、こんなになごやかに宿直の壺屋に呼び入れてくださったので、お礼を言って垂れ布を引き上げ、何気なく中へ入りました。
すると後ろから侍が現れ、その入った引き戸を閉じてしまいました。
守は奥の方にいて、「こちらへ」と招くので、清廉は恐縮しながらいざり寄ると、守が、「私の大和の国司の任期は、どうやら終わりだ。もう今年だけになった。ところで、どうして租税を納入しなかったのかね。いったいどういう所存か」と言います。

清廉は、「そのことでございます。じつは、この国一国のことではございません。山城・伊賀両国の納付のことも手配いたしておりますうち、どの国の納付もできなくなり、未納額がかさみまして、なかなか納めきれずにおりますが、今年の秋には、すべて完納しようと思っております。他の方の場合なら、うやむやに済ますことがあるかも知れませんが、あなた様のご在任中には、どうしておろそかにできましょう。今まで時間が延び延びになったこと自体、わたくしめは心中、はなはだ恐縮に存じている次第でございます。今はいかようにも仰せの通りの数量を整えて、お納めいたそうと思っております。なんと、めっそうもない、たとえ千万石なりとも、未納分をそのままにするなどは絶対にいたしません。長年の間、それ相応の貯えはいたしておりますので、これほどまでお疑いなさって、そのように仰せなさるとは、まことに心外でございます」と言いながら、内心では、「このすかんぴんめ、何をぬかすか。屁をひりかけてやるぞ。国に帰って、伊賀の東大寺の荘園の中にでも潜り込もうものなら、いかにえらい国司どのでも、絶対に責め立てはおできになれまい。いったい、どんなおかしな奴が大和国の租税を納めたりしたのだ。これまでも、作物は天のものだ、地のものだと言いくるめ、うやむやに終わらせたものを、このぬしさまは、したり顔できちんと納めろとのたまう。ばかもいいところだ。だいたい大和守なんぞになっておられることで、お上のおおぼえの程度が知れることだ。笑止なことよ」と思いましたが、表向きはひどく恐縮して、手をすりながら弁解していました。

しかし守は、「盗人根性で、おぬし、そんなきれいごとが言えた義理か。そうは言っても、家に帰ったら、こちらの使いにも会わず、納税など、よもやいたすまい。それゆえ、納付期限を今日に切ろうと思う。おぬし、納付せぬかぎり、絶対に帰れぬぞ」と言うので、清廉は、
「いえ、守どの。家に帰りまして、必ずこの月の内に完納いたします」と言いましたが、守は全然信用せず、
「私がおぬしと面識を得て、もう何年にもなっているし、おぬしもこの私、輔公を知ってから久しくなる。だからお互い、不人情なことはできないはずだ。ということで、今すぐ分別を働かして納付してしまうがいい」と言いました。

清廉は、「それにしても、ここにいては、どうして納付ができましょう。家に帰り、文書の指示通りにお納めしようと思います」と言います。
そのとき、守は声を荒げ、立ち上がらんばかりにして左右の腰をゆすり上げ、満面に怒気をみなぎらせて、「おぬし、しからば今日、納付せぬと言うのか。ならば、この輔公、今日おぬしと刺し違えて死ぬ覚悟を決めた。命など、いささかも惜しくはないぞ」と言い、「おい、みな出てこい」と声高らかに呼びかけます。
二声ばかり呼んだのですが、清廉は少しも騒がず、ほほ笑みを浮かべて、ただ平然と守の顔を見つめています。

そこへ、侍が返事をして出て来ました。
守が、「あの用意したものを持ってこい」と言います。
清廉はこれを聞き、「いかになんでも、この俺に恥をかかせることなど出来はしまい。だが、何をどうしようとて、こんなことを言うのだろう」と思っていると、侍の五、六人ほどの足音がして、やって来、引き戸の外で、「持って参りました」と言います。
守がその引き戸を開けて、「ここへ入れろ」と言うと、引き戸を開けます。
その開いたところに清廉が目をやると、灰色まだらの身の丈一尺(約30センチ)余りもある大猫がおり、眼は赤くて、琥珀を磨き入れたような目玉をして、大声を上げて鳴きます。
しかも、まったく同じような猫が五匹、次々と入って来ました。
それを見たとたん、清廉は目から大粒の涙をこぼし、守に向かって手をすり合せ、あわてふためきます。

そうするうち、五匹の猫は壺屋の中に放たれ、清廉の袖を嗅いだり、あちらの隅こちらの隅と走り回ります。
清廉の顔色は見る見る真っ青になり、今にも卒倒しそうに見えました。
守はこれを見て、かわいそうになったので、侍を呼び入れて、猫をみな引き出させ、引き戸のわきに短い縄でつながせました。
そのとき、五匹の猫の鳴きあう声は耳を聾するばかりです。
清廉は汗を水のように流し、目をぱちぱちさせて、生きた心地もない様子なので、守が、
「これでも、租税を納めぬつもりか。どうだ、今日その決着をつけよう」と言うと、清廉は声がすっかり変わり、ぶるぶる声を震わしながら、
「ただもう、おっしゃる通りにいたします。なにはともあれ、命がありましてこそ、後日の弁済もかなおうと言うものです」と言います。

そのとき守は侍を呼び、「では、硯と紙を取って来い」と言うと、侍はさっそく持って来ました。
守はそれを清廉に取らせ、「納めるべき米の数量は、まさに五百七十余石である。そのうち、七十余石は家に帰り、算木(さんぎ・計算機)を置き、よく計算して納めるがよい。五百石においては、確かに下達書(領主の清廉から領民にあてた指示命令書)を作成せよ。その下達書は、伊賀国の納所(のうしょ・年貢米などの納入所)にあてることはならぬ。おぬしのような了見では、にせの下達書を作るやもしれぬ。されば、大和国宇陀郡(やまとのくにうだのこおり・伊賀の国に隣接する地帯)の家にある稲や米を納付すると書け。その下達書を書かぬ限りは、また今のように猫を放ち入れ、この輔公は出て行く。そうして、壺屋の引き戸を外から閉めて封じ籠めたままにしておこう」と言うと、清廉は、
「我が君、我が君。そんなことをされては、この清廉はしばらくも生きてはおられません」と言って、手を合わせ、宇陀郡の家にある稲・米・籾三種のものをもって五百石分の下達書を書き、守に手渡しました。
守は下達書を受け取ると、清廉を壺屋から出してやりました。
それから、下達書を[郎等]に持たせ、清廉を連れて宇陀郡の家へやり、下達書通りに全部取り出させ、確実に受け取りました。

されば、清廉が猫におびえるのは、じつにばかげたことに見えましたが、大和守輔公朝臣にとっては、非常に大事なことであったと当時の人はみな噂し合い、世をあげて笑いあった、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻28第31話 大蔵大夫藤原清廉怖猫語 第卅一
今昔物語集 巻28第31話 大蔵大夫藤原清廉怖猫語 第卅一 今昔、大蔵の丞より冠給はりて、藤原の清廉と云ふ者有き。大蔵の大夫となむ云ひし。 其れが、前世に鼠にてや有けむ、極く猫になむ恐ける。然れば、此の清廉が行き至る所々には、男女の勇たるは、清廉を見付つれば、猫を取出て見すれば、清廉、猫をだに見つれば、極き大切の...

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

清廉とその財力

藤原清廉は売官制度を利用して、成り上がった男である。官職が売りに出されるといっても、買うには現在のお金にして数千万から億単位の資金がいる。
清廉は、公領を侵食して私有地を拡張し、それは伊賀国だけで28か所、山城・大和の国まで及んだ。その財力は都にまで知れ渡って、大和の興福寺と播磨の書写山円教寺焼亡に際しての復興の相談を受けるほどだった。
その円教寺造営費負担の功賞で、長徳3年(997)に大蔵少丞(従六位下相当)、長保6年(1004)に大蔵大丞(正六位相当)となり、さらに従五位下に昇進し、五位の通称・大夫と呼ばれた。

圓教寺(円教寺)摩尼殿(兵庫県姫路市)

本話では、清廉は伊賀国黒田庄の領主でもあり、東大寺は名張一帯に荘園を経営していて、そこに自分の所有する土地を潜り込ませて、税の徴収をのがれようと考えた。
実際に東大寺領の内に一田地を所有し、清廉が77歳で没した後、その土地は息子の実遠、次に実遠の養子の信良に伝えられた。

律令国家は、天平15年(743)の墾田永年私財法で荘園の設立を許した後も、荘園を公領と同様に扱って国司が立ち入り、租税をかけていた。
しかし荘園を持つ有力者は9世紀頃から租税免除の「不輸」の権を獲得していき、国司らの立ち入りを禁止する「不入」の特権も併せ持つ荘園が11世紀には一般化する。
この話の成立した頃、東大寺領についてはすでにその特権が成立していたものの、清廉のような寺社ではない者からは、国司は租税を取りたてていたようだ。

大和国の国司となった藤原輔公は、私的に藤原道長家の家司、つまり事務を司った職員を勤めたほどの男だったので、並の国司とは知恵の巡らし方がいささか違う。
清廉の苦手な猫をけしかけることで、未納の税を見事に徴収した。

国司は、不三得七法というもので、租税の10分の7を官に納め、その余りを自分の物にできた。
清廉の税の滞納分、570石を約1800万円と換算すれば、輔公は猫5匹で540万円稼いだことになる。

売官制度について

古代・中世では、もとは位があっても無官の者を救済するために導入された。
売官には、年官(ねんかん)と成功(じょうごう)がある。

『年官』は、平安時代以降、天皇・上皇・三宮(太皇太后・皇太后・皇后)・皇太子・女院・親王・女御・内侍・典侍・公卿などの所得とするために、毎年の除目に下級の国司・京官を一定数、推薦させ、その任料を収入とさせた制度で、年給の一種。
『成功』は、国家財政の不足を補うため、朝廷の行事や寺社の修造など、本来は朝廷が行うべき事業に私費を献じた者へ、その負担に見合う位階・官職を与えたもの。

大荘園主の清廉は『成功』によって位階と官職を得たのだが、国司も任期の更新、延長、実入りの良い国への転任などに利用し、院政期には売官の『成功』がほぼ常態化する。


〈『今昔物語集』関連説話〉
受領について:巻28「信濃守藤原陳忠御坂に落ち入る語第三十八」


【参考文献】
小学館 日本古典文学全集『今昔物語集四』
『王朝貴族物語』山口博著、講談社

巻二十八
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今昔物語集 現代語訳

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