巻二十五第十三話 前九年の役(その2)

巻二十五(全)

巻25第13話 源頼義朝臣罸安陪貞任等語 第十三

(巻二十五第十三話[その1]より続く)

その後、守は兵を休息させようと、あえて追撃しませんでした。
また、長雨のため、十八日間ここに留まりました。
その間、兵粮が底を尽き、食べ物がなくなりました。
守は多くの兵を諸方につかわし、食糧を探させましたが、貞任たちがこれをもれ聞いて、隙をうかがい、大軍を率いて攻撃してきました。
そこで、守および義家・義綱・武則らは全軍を励まして、気力を奮い立たせ、命を捨てて戦ったので、貞任たちはついに敗走します。
守や武則たちは味方の軍勢と共に追撃し、貞任の高梨の宿(たかなしのしゅく・岩手県一関市赤萩)と石坂の楯の所で追いつきました。
ここでの合戦で貞任はまた敗れ、その楯を捨てて、衣川の関へ逃げ込みました。
ただちに衣川を攻めます。
この関は、もともと非常に険しい上に、繁茂した樹木が道を塞いでいます。
守は三人の統率者(清原武則・清原武貞・橘頼貞)に手分けして攻撃させました。

武則は馬を降り、岸辺を回って見て、久清(ひさきよ)という兵を呼び、
「両岸に幹の曲がった木がある。その枝が川の上を覆っている。おまえは身が軽く、ものを飛び越えることが得意だが、あの木を伝って向こう岸に渡り、ひそかに敵陣に潜入し、あの楯の木に火を放て。敵はその火を見て驚くに違いない。そのときに俺は必ず関を破ってみせる」
と言います。
久清は武則の命に従い、猿のように対岸の曲がった[木]に取りつき、縄を結び、この縄に取りついて三十余人の兵が対岸に渡りました。
そしてひそかに、藤原業道(ふじわらのなりみち・宗任の腹心)の楯に忍び込み、火を放って焼きました。
貞任たちはこれを見て驚き騒ぎ、戦わずして敗走し、鳥海の楯に入りました。

守と武則たちはこの楯を攻め落とした後、鳥海の楯を攻めます。
この軍がまだ到着しない前に、宗任・経清たちは城を捨てて逃げ、厨川(くりやがわ・盛岡市前九年町)の楯に移りました。
守は鳥海の楯に入ってしばらく兵を休めましたが、ある屋舎の中に酒がたくさん置いてありました。
歩兵たちがこれを見つけて喜び、急いで飲もうしました。
守は押しとどめて言います。
「これはきっと毒酒であろう。飲んではならぬ」と。
しかし、雑兵の中の一人二人がこっそり盗み飲みしたところ、何の害もありませんでした。
そこで全軍あげて、これを飲みました。

さて、武則は正任(まさとう・貞任の弟)の黒沢尻(くろさわじり・岩手県北上市黒沢尻町)の楯のほか、鶴脛(つるはぎ・岩手県花巻市の北)・比与鳥(ひよどり・花巻市石鳥町の北)の楯などを同じく攻め落とし、ついで、厨川・嫗戸(うばと)の二つの楯に至ってこれを包囲し、陣を張って終夜油断なく見張りを続けました。
そして翌日(康平5年・1062・9月16日)、卯(う)の時(午前6時)から夜昼通して戦いました。

ときに(激戦に明け暮れた翌日の17日)、守は馬を降りて、はるかに王城のかたを拝し、自ら火を手にして、
「これは神火である」
と、誓言を立て、それを投げました。
そのとき、どこからともなく鳩が現れ、陣の上を舞い飛びます。
守はこれを見て、泣く泣く拝しました。
すると、にわかに暴風が吹き起こり、城内の建物はことごとく一時に焼け失せました。
城内の男女数千人、声を合わせて泣き叫びます。
敵兵は、あるいは淵に身を投げ、あるいは敵前に身をさらし、相手方に向かって自害します。
守の軍勢は渡河して攻め、包囲して戦います。
敵軍は身を捨てて剣を振るい、囲みを破って脱出しようとします。
武則は自分の兵に告げて命じました。
「道を開けて敵を出してやれ」と。
そこで兵たちは包囲を解きました。
敵は戦わずして逃げて行きます。
守の軍勢はこれを追い、皆殺しにしました。
また、経清を捕えました。

守は経清を召し出し、言います。
「おまえは先祖以来、わしの従者だ。それなのに長年、わしをあなどり、朝廷の威を軽んじた。その罪はまことに重い。どうだ、こうなっても白符を使うことができるか、どうだ」と。
経清は頭を垂れて、ひと言もありません。
そこで、守は鈍刀をもって少しずつ経清の首を切りました。

貞任は剣を引き抜いて軍勢に切り込んできましたが、軍兵は槍をもって貞任を刺し殺しました。
そして、大きな楯に乗せ、六人がかりでかついで守の前に置きました。
身の丈六尺(約182センチ)余り、腰回り七尺四寸(約224センチ)、容貌魁偉で色白です。
年は四十四。
守は貞任を見て喜んで、その首を切り落としました。
また、弟・重任の首も切りました。
しかし、宗任は深い泥の中に隠れて逃げのびました。
貞任の子の童は年十三、名を千世童子(ちよどうじ)といい、かわいい子です。
楯の外に出て、けなげに戦いました。
守はこれを哀れみ、ゆるしてやろうと思いました。
しかし、武則がそれを制して首を切らせました。
楯が落ちたとき、貞任の妻は三歳の子を抱いて夫に向かい、
「あなたはもう殺されようとしています。私一人、生きてはおれません。あなたの見ている前で死のうと思います」
と言って、子を抱いたまま深い淵に身を投げて死にました。

その後、日を経ずして、貞任の伯父・安陪為元(あべのためもと)、貞任の弟・家任(いえとう)が降伏して出て来ました。
また数日して、宗任たち九人が降伏して出て来ました。
その後、朝廷に報告書を奉り、首を切った者と降伏した者の名を上申しました。

翌年(康平6年・1063・2月16日)、貞任・経清・重任の首三つを奉りました。
それが京に入る日、京中の上中下の人びとが大騒ぎをして見物しました。
その首を持って上る途中、使者が近江国甲賀郡で箱を開け、首を出して、その髷(もとどり)を洗わせました。
箱を持つ人夫は、もと貞任の従者で降伏した者です。
これが首の髪をすく櫛がない旨を言いました。
使者は、
「おまえたちの自分の櫛で梳け」
と言います。
そこで人夫は自分の櫛で泣く泣く梳きました。
首を持って京に入る日、朝廷では検非違使たちを賀茂川原にやって、これを受け取らせました。

その後(康平6年2月25日)、除目(じもく)が行われた際、その功を賞せられ、頼義朝臣は正四位下に叙し、出羽守に任じられました。
次男の義綱は左衛門尉に任じられ、武則は従五位下に叙して、鎮守府将軍に任じられました。
首を奉った使者の藤原秀俊(ふじわらのひでとし・経清の従兄弟の子)は左馬允(さまのじょう・左馬寮の三等官)に、物部長頼(もののべのながより)は陸奥大目(むつのさかん・陸奥国の国府官人の四等官)に任じられました。

このように、賞があらたかに行われたことを見て、世の人はみな、褒め喜んだ、とこう語り伝えているということです。

前九年合戦絵巻断簡(五島美術館)

【原文】

巻25第13話 源頼義朝臣罸安陪貞任等語 第十三
今昔物語集 巻25第13話 源頼義朝臣罸安陪貞任等語 第十三 今昔、後冷泉院の御時に、六郡の内に安陪頼良と云ふ者有けり。其の父をば忠良となむ云ける。父祖世々を相継て、酋(えびす)の長也けり。威勢大にして、此れに随ぬ者無し。其の類伴広くして、漸く衣河の外に出づ。公事を勤めざる、代々の国司此れを制する事能はず。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

陸奥話記

本話の出典は、前九年の役の顛末を記した『陸奥話記』。その大幅な要約や抄出をしたものである。
ただ、最後の除目の部分に、義家に関しての脱文があり、『陸奥話記』では、
「頼義朝臣は正四位下に叙し、伊予守に任じられた。長男の義家は従五位下に叙し、出羽守に任じられた」
とあって、『伊予守』から『従五位下』までの文が脱落したと思われる。

清和源氏と東北

中国から律令制を取り入れた大和朝廷は、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)を蛮族として扱い、服属しようとした。
隼人については、平安時代前期に公民化して取り込んだが、蝦夷については完全に服属させることはできず、陸奥国の衣川以北に奥六郡、出羽国に山北三郡を置いて、俘囚(ふしゅう・朝廷に服属した蝦夷)の有力者にそれを治めさせ、税を納めさせた。

前九年の役は、陸奥国奥六郡の郡司として半独立的な支配権力を樹立していた俘囚長・安陪氏が、衣川関を南下して内国に勢力を広げようとし、税・労役を納めなかったので、朝廷は清和源氏の源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じて討伐させた。頼義は苦戦したが、出羽の俘囚長・清原氏の助けを得て、鎮圧に成功した。
これが『陸奥話記』に語られた経過だが、近年では、奥羽の富に目を付けた源頼義の「意図的な戦」であったというのが、研究者の共通認識であるという。
この前九年の役から約二十年後に起こった後三年の役も、前九年の役のあと、陸奥・出羽を支配下においた清原氏の内訌に、陸奥守として赴任した源義家がすすんで介入した私戦であったというのが現在の通説である。
二つの戦いには清和源氏の東国での本拠地・相模を中心とした坂東の武士たちが従軍した。

現代の私たちがイメージする『サムライ』は、新渡戸稲造が著した『武士道』に描かれる武士である。
それは、儒教の朱子学に基づいた道徳規範を持ち、徳川三百年のうちに形成された武士でもある。
戦国期、室町、鎌倉とさかのぼれば、それぞれの時代の武士像が存在する。
平安時代の武士たちについては、朝廷の命によって戦う武官、もしくは郡司・地方豪族で、戦の際に決まりなどあったにしても、頭領ともなる名のある武士は、受領や検非違使等を勤める官吏でもあった。

平安時代の武士たちの間では、暗黙のうちに矢合わせから始まる戦場の決まりごとが作られたのだが、東北の俘囚との長期にわたる合戦は、異文化との遭遇であったようだ。なにしろ、自分たちの戦の作法が通じず、裏をかかれたりする。
鎌倉時代の軍記物『平家物語』の中で、東西の武士の比較が語られている。
西の武士は、農作業の繁忙期の合戦の中断や戦死者を収容したり弔う儀礼のための休戦があったりするのが一般的と考える古代の合戦を常識としていたが、前九年の役・後三年の役を経験した東国武士は、
「親も討たれよ、子も討たれよ、死ねば乗り越え乗り越え戦う候。西国の戦と申すは、親も討たれぬれば孝養し、忌明けて寄せ、子討たれぬれば、その思い嘆きに寄せ候わず。兵粮米尽きぬれば、田作り、刈り収めて寄せ、夏は暑しといい、冬は寒しと嫌い候。東国にはすべてその儀候わず」
と、すさまじい。

奥州では、前九年の役で陸奥の安陪氏が滅んだあと、出羽の清原氏が奥州全体を支配するようになった。
藤原秀郷の子孫・経清を婿としていた安陪頼時の娘は、藤原経清との間に出来た子・清衡を連れて、清原武則の子・武貞に再嫁する。
始め清原氏を名乗った清衡は、後三年の役で源義家に協力し、清原氏の主流をすべて滅ぼした。
藤原姓に戻った清衡は、「俘囚の主」の地位を受け継ぎ、陸奥出羽押領使に補任され、奥羽全域の軍事的支配者となり、衣川より南の平泉に館を構えた。
金を産する奥州の富だけでなく、蝦夷ヶ島(北海道)、樺太、ユーラシア大陸にもわたる北方貿易、そしてアフリカまでつながる幅広い交易圏から得られる物産を奥州藤原氏の歴代は朝廷や摂関家へ貢納した。
それによってか、さして功もないのに、三代・秀衡は鎮守府将軍・陸奥守に任じられ、奥羽の支配を公認されることになる。

藤原秀衡(岩手県西磐井郡平泉町毛越寺)

一方、前九年の役を戦った先祖の源頼義を尊敬する源頼朝は、治承・寿永の合戦(源平合戦)が終わったのち、本拠・鎌倉の後方に存在する東北の雄・藤原氏と朝廷が手を結んで自らを滅ぼすことがないよう、追討宣旨を得ないまま、弟・義経を庇護する奥州藤原氏に対して兵を挙げた。
頼朝は自ら出陣し、奥州における合戦にもかかわらず、九州南端の武士まで及ぶ大動員をかける。
その戦は、奥州藤原氏を討つというだけではなく、御家人たちを源頼朝のもとに再編・明確化する政治的意味をも持つものだった。そのため、不参した有力御家人には、戦後、所領没収という制裁が行われた。
また、頼朝は奥州合戦を前九年の役の再現として演出した。全国の武士たちに、先祖・源頼義の武功を認識させ、その直系・鎌倉殿頼朝の権威を確立し、その正統性を植え付ける思惑を持っていた。
この試みは成功し、奥州藤原氏は四代・泰衡のとき滅び、東北は鎌倉幕府が掌握したのだった。

巻三十一第十一話 安倍頼時が北の国にわたった話
巻31第11話 陸奥国安倍頼時行胡国空返語 第十一今は昔、陸奥国(現在の東北)に安倍頼時(あべのよりとき)という武人がいました。その国の奥に夷(えびす)というものがいて、朝廷に従い奉ろうとしなかったので、「これを討つべし」という勅命が...

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『日本の歴史 第07巻 武士の成長と院政』下向井龍彦著、講談社
『全集 日本の歴史 第4集 揺れ動く貴族社会』川尻秋生著、小学館
『院政と武士の登場』福島正著、吉川弘文館
『源氏と坂東武士』野口実著、吉川弘文館
『奥州藤原氏―その光と影』高橋富雄著、吉川弘文館
『なぜ、地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか』千田稔監修、洋泉社

【協力】ゆかり・草野真一

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