巻31第11話 陸奥国安倍頼時行胡国空返語 第十一
今は昔、陸奥国(現在の東北)に安倍頼時(あべのよりとき)という武人がいました。
その国の奥に夷(えびす)というものがいて、朝廷に従い奉ろうとしなかったので、「これを討つべし」という勅命が下り、陸奥守(むつのかみ)源頼義朝臣(みなもとのよりよしのあそん)がこれを攻めようとしましたが、頼時がその夷と通じているという風評があり、頼義朝臣はまず、頼時を攻略しようとしました。
頼時が言うには、
「昔から今に至るまで、朝廷の咎をこうむった者は数多くあるが、いまだ朝廷に勝ち奉った者は一人もない。されば、わしは少しの過失も犯しておらぬものの、このように咎をこうむっては、とうてい逃れるすべもない。ところで、この国の奥の方より海を渡って北に、はるか遠く見渡される陸地がある。そこに渡り、土地の様子を見て、もし住み得る所なら、ここでいたずらに命を失うよりは、わしから離れがたく思う者だけを引き連れ、かの地に渡って住もうと思う」
そう言って、まず大きな船を一艘用意してそれに乗って行きました。
一行は、頼時をはじめ、子の厨河二郎貞任(くりやがわのじろうさだとう)、鳥海三郎宗任(とりのうみのさぶろうむねとう)、その他の子どもたち及び身近に付き従う郎等二十人ほどでありました。
また、その他の従者や食事の世話をする者なども連れ、合せて五十人ほどが一つの船に乗り、当分の食糧として、白米・酒・果物・魚・鳥などを多く用意して積み込み、船を出して海を渡ると、やがて、かの遠く見渡される陸地へ到着しました。
ところが、そこは遙かにそびえ立つ断崖絶壁の岸で、上は樹木の生い茂った山だったので、上陸しようにも出来ず、断崖の裾にそってどこまでも回っていくうち、左右がはるかに開けた葦原(あしはら)の続く大河の河口を見つけて、そこに船を差し入れました。
「人影でもないか」と見回しましたが、人っ子ひとり見当たりません。
また、「上陸できるところはあるか」とあたりを見ても、はるかに続く葦原で、人の通った跡もありません。
川は底知れぬ深い沼のような川です。
「もしや人の気配のする所はなかろうか」と、川を上流に向かってさかのぼりましたが、どこまでいっても同じような風景で、一日過ぎ二日過ぎました。
「なんとあきれたことだ」と思いつつ、七日間さかのぼりました。
それでも少しも変わらないので、
「それにしても、川であるからは、いかになんでも源がないはずはあるまい」
と言って、さかのぼって行くうち、とうとう二十日もさかのぼりました。
それでもやはり、人の気配がなく、同じ風景なので、さらに三十日さかのぼりました。
そのとき、怪しくも地響きがするように思われたので、船中の者がみな、「どういう人間が来たのか」と恐ろしくなり、高々と生い茂る葦の陰に船を隠し、葦の隙間から響きの聞こえる方を見ていると、胡国(ここく・古代中国の北方民族)の人を絵にかいたような姿をし、赤い物の□□て頭を結った者が一騎現れました。
船中の者はこれを見て、「いったい何者だろう」と思いながら見ていると、同じような胡人が次から次へと数知れず現れて来ました。
それが皆、川岸に立ち、聞いたこともない言葉で話しているので、何を言っているのか分かりません。
「もしや、この船を見つけて何か言っているのではなかろうか」と思うと、恐ろしくなり、いよいよ身を隠して見ているうち、胡人は二時間ほど鳥がさえずるように話し合ったあげく、川に、ばらばらと馬を乗り入れて渡り始めました。
千騎ほどあろうかと見えます。
徒歩の者たちを、馬に乗った者たちがそばに引きつけ引きつけして渡って行きました。
先ほどの地響きは何と、この者たちの馬の足音がはるかに響いて聞こえたのでした。
みな渡り終わったのち、船の者たちは、「ここ三十日ほどさかのぼって来たのに、一か所も歩いて渡れる浅瀬とおぼしき所が見つからなかったが、あのように徒歩で渡ったぞ。こここそ、渡る浅瀬なのだ」と思い、恐る恐る物陰から出て、そっと船を漕ぎ寄せてみましたが、そこも同じように底知れぬ深さでした。
「ここも渡りの浅瀬ではなかった」と、がっかりして、上陸を思いとどまりました。
胡人たちはなんと、馬筏(うまいかだ・馬を何頭もつなぎ合わせて川に乗り入れて渡る方法)ということをして、馬を泳がせて渡ったのでした。
徒歩の者をその馬に引きつけながら渡したのを、歩渡(かちわたり・歩いて川を渡る)だとばかり思っていたのでした。
そこで船の者は頼時をはじめ、話し合い、
「この川は、これほどさかのぼってもきりがなく、はかりしれない。また、いつまでもさかのぼっているうち、万一のことがあったら、まことにつまらない。だから、食糧が尽きぬうちに、さあ、引き返そう」
と言って、そこから川を下り、海を渡って本国に帰って行きました。
その後、いくばくもなく頼時は死にました。
されば、胡国という所は唐よりもはるかの北と聞いていましたが、「陸奥(みちのおく)の国の奥にある夷の地につながっているのだろうか」と、かの頼時の子の宗任法師といって筑紫(つくし・現在の福岡県)にいる者が語った話を聞き継いで、こう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 柳瀬照美
安倍頼時と北海道
本話は、前九年の役の際、降伏して筑紫の大宰府に移された安倍頼時の三男・宗任(むねとう)のが語った話をもとに作られたものと思われる。
平安時代の陸奥国は、現在の岩手県南部を流れる衣川を境にして、その北は蝦夷(えみし)と呼ばれる人びとの地であった。海をへだてたさらに向こうは、大和朝廷の支配が及ばない土地である。
明治2年(1869)、幕末の北方探検家・松浦武四郎(まつうらたけしろう)の名称案により、蝦夷(えぞ)、北州・十州島とも言ったその地は、『北海道』と名づけられた。
安倍一族が渡った場所が、北海道だとすると、『今昔物語集』における最北の地の話であり、当時の北海道の状況を伝える唯一の資料でもあるという。
北の人びと、蝦夷について
日本列島は現在の形になる以前から大陸よりヒトが流入し、列島弧として大陸から切りはなされたのちにも、南北と朝鮮半島から人びとが渡ってきたことが分かっている。
縄文時代には、青森県の三内丸山遺跡のような大集落が発展し、西よりも東にこの時代の遺跡が多く出土することから、列島東部の方が住みやすかったことがうかがわれる。
やがて九州北部に稲作技術が伝わり、東北地方以南が稲作を受容する。同時期、北海道と東北では、オホーツク海沿岸地域やサハリン、千島列島、海を渡った北東アジアの影響も強く受けた独自の文化が発展した。
列島の南と西では、「倭国大乱(147-189)」という時期を経て、ヤマト王権の国土統一が進んでいった。そして、畿内の中央政権から見て、東と北に住む人びとを「エミシ、エビス」と呼んだ。
古くは神武東征記で「愛瀰詩」と書き、中国では東晋、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅という国があった五世紀、倭王武の上表文に「東に毛人(えみし)を征すること五十五国」とあり、『日本書紀』のヤマトタケルノミコトの父・景行天皇条で、初めて「エミシ」が「蝦夷」と表記される。
「エミシ」には元々、勇敢さや強さといった意味合いがあったが、大和朝廷が中国の律令制度を取り入ることによって自らを「小中国」とみなすと、中華思想から東北の蝦夷と南九州の隼人(ハヤト)は蛮族として服属させるべき対象となった。
九州南部の隼人は、持統天皇のあとをついで即位した文武天皇(夫人は藤原不比等の娘・宮子)の大宝初年、大規模な反乱を起こす。そして元明天皇の和銅年間、奈良時代の元正天皇の養老年間にも反乱を起こした。こののち、隼人の一部は畿内に、残りは薩摩・大隅地方に移住させられた。
辺境の蛮族として異民族の扱いが続いた蝦夷と隼人だが、唐・新羅の脅威が薄れ、奈良時代の遷都と大仏建立などによって悪化した財政を立て直す必要から、公民、つまり税を納める対象にする政策がとられるようになる。
隼人については、平安時代に入った延暦19年(800)、班田収授が行われ、公民とすることで、朝廷は隼人を内に取り込んだ。
けれども東北では、陸奥国は広く、蝦夷の朝廷に対する態度もさまざまで、服属させるのは簡単なことではなかった。
飛鳥時代の斉明天皇の4年(653)、朝廷に従った蝦夷が遣唐使と共に大陸に渡り、唐の高宗に会っている。このとき、おとなしい「塾蝦夷(にぎえみし)」、荒々しい「麁蝦夷(あらえみし)」、最も遠い所に住む「都加留(つがる)」と使者は蝦夷を説明し、連れて来たのは塾蝦夷であると紹介した。
蝦夷でも朝廷に対する態度は地域によって異なり、長期間にわたって、交易と征伐が並行して行われた。
「夷をもって夷を制する」という朝廷の方針から、蝦夷同士の反目、朝廷への反感で、出羽国と陸奥国では各地で小競り合いが続いてゆく。
桓武天皇の延暦21年(802)初頭、坂上田村麻呂が胆沢城を築き、同じ年の4月に蝦夷の大墓公(たものきみ)アテルイ、盤具公(いわぐものきみ)モレとその配下を降伏させ、翌年2月に志波城を築くと、胆沢周辺の蝦夷は、ほぼ平定される。しかし、陸奥国は奥深く広大で、完全な勝利とはいえなかった。
延暦24年(805)に参議・藤原緒嗣(桓武の立太子に尽力した百川の子)の意見を入れ、桓武天皇は蝦夷に対する戦いを止める。
蝦夷の完全な公民化は放棄され、降伏した蝦夷――俘囚(ふしゅう)が全国に移住させられ、現地に残った蝦夷には国司が禄を与え、饗宴を催すという懐柔策がとられた。
移住させられた俘囚たちは、現地で暴力行為や牛馬掠奪などを行い、また大規模な反乱も起こしたので、宇多天皇の寛平9年(897)、朝廷は俘囚たちを陸奥国に帰すことを決定した。
これによって、ほとんどの俘囚たちが陸奥国へ帰って行った。強制的な移住は、92年で終わった。
桓武天皇によって軍団制が解消されても、俘囚の住む陸奥・出羽では、それが残され、受領化した鎮守府将軍が彼らを担当した。
まず、延暦21年(802)、鎮守府が多賀城から田村麻呂によって築かれた胆沢城に移された。
鎮守府の管轄になった衣川以北に胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波の五郡が置かれ、その統治は俘囚首長を郡司・村長に、のちには負名に任命するという、蝦夷の支配関係を温存したものだった。彼らを通して、金・馬・熊皮・アザラシ皮・鷲羽を交易という形で、調・庸、または官物とは別の税として陸奥国司の部下であった鎮守府将軍が徴収した。
平安時代前期・10世紀の初めに、陸奥国では奥五郡に岩手が加わり、奥六郡が成立する。
奥六郡の俘囚・公民から税としての官物を徴収する責任を鎮守府将軍が負うようになると、有力武士が鎮守府将軍に任じられるようになった。
清和源氏の源頼義が陸奥守になったとき、陸奥国の奥六郡、胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手を治める俘囚長は安倍氏の頼良(のちに改名して頼時)で、出羽の山北三郡、雄勝・平鹿・山本を治める俘囚長は清原氏の光頼・武則兄弟だった。
前九年の役で頼義によって安倍氏は滅び、そののち出羽・陸奥を支配した清原氏が武則の嫡孫・真衡のとき、後三年の役で源義家によって滅びた後、奥州を支配した藤原秀郷の子孫である奥州藤原氏も、初代・清衡から三代続いたのち、源頼朝による奥州合戦によって滅亡した。
百年にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅びたあと、頼朝は東北に鎌倉幕府による支配体制を敷く。
それ以後、「蝦夷」は「エゾ」と呼ばれるようになった。
アイヌ民族の存在が確認されるのは、さらにのち、鎌倉時代後半の13世紀で、中世以後、蝦夷(エゾ)はアイヌを指すとの意見が現在、主流である。
〈『今昔物語集』関連説話〉
前九年の役:巻25「源頼義の朝臣安陪貞任等を罰つ語第十三」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』
『なぜ、地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか』千田稔監修、洋泉社
『全集 日本の歴史 第3集 律令国家と万葉びと』鐘江宏之著、小学館
『全集 日本の歴史 第4集 揺れ動く貴族社会』川尻秋生著、小学館
『日本の歴史 第05巻 律令国家の転換と「日本」』坂上康俊著、講談社
『日本の歴史 第07巻 武士の成長と院政』下向井龍彦著、講談社
コメント