巻二十五第五話 平維茂と藤原諸任の死闘(その2)

巻二十五

巻25第5話 平維茂罸藤原諸任語 第五

[(その1)より続く]

さて一方、余五はかの家で、夜が明けるまで走り回って下知しながら奮戦し、敵を多く射殺して、もはや矢も尽き、味方も残り少なくなったので、「この上、戦っても無駄だ」と思い、着ていた衣を脱ぎ捨て、女が着ていた襖(あお・裏地付きの着物)という衣を剥ぎ取って、それを身に着け、髪を振り乱して下女の姿になりすまし、太刀だけを懐に忍ばせ、さかんにくすぶっている煙にまぎれました。
飛ぶように家から逃れ出て、西を流れる川の深みに飛び込んで、向こう岸近く葦などが生い茂ったあたりに注意深く泳ぎ着きました。
手に触れた臥柳(ふしやなぎ・丈の低い、横広がりに生えた柳)の根をつかんでいました。
やがて家が燃え尽き、沢胯の軍勢たちは焼け跡に打ち寄せて、焼け死んだり、射殺されたりした者たちの数をかぞえ、また、「余五の首はどれだ」と言い、「これがそうだ」などという奴らの声もします。
こうして皆、引き上げていきました。

もはや四、五十町も行ったと思うころ、屋敷の外に住む自分の郎等たちが三、四十騎ほど駆けつけて来ました。
余五のものらしく思われる、この焼けただれた首を見て、声を合わせて泣き叫びます。
騎馬の兵が五、六十人ほども集まって来たと思うころ、余五は大声で、「おれは、ここにいるぞ」と叫びました。
兵たちはこれを聞き、馬からころげ落ちてうれし泣きをしましたが、それは前の泣き叫び声に劣らぬほどでした。
余五が岸に上がると、郎等たちはおのおの自分の家へ人をやり、ある者は着物、ある者は食べ物、ある者は弓矢・太刀、ある者は馬・鞍など持って来させたので、余五はすっかり衣装を改め、十分に食事を終えたのちに言います。
「わしは昨夜、襲われたとき、はじめは山に逃げ込んで命を全うしようと思ったが、『逃げたという汚名を世にとどめまい』と思い、こんなひどい目をみたのだ。おまえたち、これからどうしたら良いと思うか」と。
郎等たちは、「敵は大勢で、軍兵は四、五百人ほどもいます。味方はわずか五、六十人ばかりに過ぎません。これをもって今、どうなされますか。ですから、後日、軍勢を集めて、いかようにも戦いなさるがよろしかろうと存じます」と言いました。

余五はこれを聞き、「お前たちの言うところはまことに、もっともだ。だが、おれが思うには、『もし、おれが昨夜、家の中で焼き殺されたとしたら、今まで命があっただろうか。どうにかやっと危地を脱したわけだから、これではもはや生きている身とはいえない。一日でも、お前たちにこんなざまを見せたとすれば、この上ない恥だ。だから、おれは露ほども命を惜しまない。お前たちは後日、軍勢を集めて戦うがいい。おれとしては、たった一人ででも奴の家に向かい、【焼き殺した】と思っている奴らに、【おれはこのように生きているぞ】と見せてやり、一矢なりとも射かけて死ぬ』つもりだ。さもなくば、子々孫々まで、この上ない恥ではないか。後日、軍勢を催して討つなど、じつに愚かなことだ。命の惜しい者はついて来るな。おれ一人で行くぞ」と言って、さっさと出かけて行こうとします。

そこで、郎等たちは「後日、戦おう」と決めたものの、これを聞いて、「いかにも、ごもっともな仰せです。この上、申すべきことはございません。ただちに、ご出陣なされませ」と言うので、余五は出陣を前に、「おれの言うことに、よもやまちがいはあるまい。奴らは一晩中の戦に疲れ切って、これこれの川のほとりか、またはこれこれの丘の向こうの櫪原(くぬぎはら)などに死んだようになって寝ているだろう。馬なども轡(くつわ)をはずし、まぐさでも食わせて休んでおろう。弓などもみな[はずし]て油断しておろうから、そこに鬨(とき)の声をあげて押し寄せたなら、たとえ千人の軍勢なりとも何ほどのことがあろう。もし今日やらなかったら、いつの日にやれようぞ。命の惜しい者は、かまわずとどまっていよ」と言います。
みずからは紺の襖(あお)に山吹色の衣を着、夏毛の行騰(むかばき・鹿革の腰から足までの覆い)をつけ、綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、征矢(そや・戦闘に用いる矢)三十本ほどに上指(うわざし)の雁股(かりまた)を二列差した胡籙(やなぐい・矢入れ)を背負い、手には革を所どころ巻いた握り太(ふと)の弓を持ち、新身(あらみ)の太刀をはき、腹葦毛の馬で、丈が四尺七寸ほどもあって特に丈高く、進退自在のすばらしい逸物に、打ちまたがりました。
さて、軍兵の数をかぞえれば、騎馬の兵七十余人、歩兵三十余人、合わせて百余人が集まりました。
これらは屋敷に近い者どもが急を聞いて、いち早く馳せ参じたのでしょう。遠い者たちはまだ知らせが達せず、遅く来るようです。

綾藺笠

こうして、敵のあとを尋ねつつ、しゃにむに馬を走らせて追って行きましたが、かの大君の屋敷の前を通り過ぎるとき、使者に声を掛けさせました。
「平維茂、昨夜、打ち[破]られて落ち延びて行くのでござる」と。
大君はかねてから、あるいは襲われることもあろうかと、屋敷内に郎等二、三十人ばかりを置き、数人を櫓(やぐら)に登らせて遠見をさせ、門を堅く閉じていましたが、この声を聞いて、郎等に、「何も返答するな」と制したので、使者は声を掛けただけで立ち戻りました。

大君は櫓に登っている者を呼び、「どういう様子であったか。しかと見定めたか」と訊くと、「見ました。一町ほど先の大路を、軍勢が百人ほど駿馬に鞭打って、飛ぶようにして過ぎて行きました。その中で、大きな葦毛の馬にまたがり、紺の襖に山吹色の衣をつけ、綾藺笠をかぶり、夏毛の行騰をした者が、一段とすぐれた武者ぶりで、主将と見受けました」と答えます。

葦毛の馬(オグリキャップ)

大君は、「それは余五であろう。彼の持っている大葦毛に違いない。それは格別の逸物と聞いておる。余五がそれに乗って押し寄せたからには、誰が手向かいできようぞ。沢胯は、ひどい死に方をする奴よ。わしの言ったことをばかにして、うまくやったという得意げな顔は大したものであったが、さだめしあの丘のあたりで疲れて寝ているであろうに、そこをこの者たちに襲い掛かられたら、一人残らず皆殺しに射殺されてしまうは必定だ。いいか、よく聞けよ。わしの言葉によもや間違いはあるまい。されば、門を堅く閉じ、鳴りをひそめておれ。わかったか、いいな。ただ櫓に登って、遠見を続けろ」と言います。

さて余五は、前方に物見を走らせ、「沢胯の居場所をしかと突き止めて報せよ」と言って出しましたが、それが走り帰り、「これこれの丘の南側の沢めいた草原で、物を食ったり酒を飲んだりして、あるいは寝込み、あるいは病人のようになっています」と告げました。
これを聞いた余五は喜び、「それ、思いっきり飛ばせ」と命ずるや、飛ぶように走ります。
その丘の北側から駆け登らせ、丘の上から南に斜面を駆け降ります。
下り坂なので、馬場のような野を、まるで笠懸(かさがけ)を射るように、鬨(とき)の声を上げ、鞭を打って、五、六十騎ばかりが襲い掛かりました。

そのとき、沢胯四郎をはじめ軍兵たちは、あわてて起き上がり、これを見て、ある者は胡籙を取って背負い、ある者は鎧を取って着、ある者は馬に轡を[はめ]、ある者は倒れ惑い、ある者は弓矢を捨てて逃げ出し、中には、楯を取って戦おうとする者もいました。
馬たちは混乱に動揺して走り騒ぐので、しっかり取り押さえて轡を[はめ]る者もありません。
そこで馬の口取りの男を蹴倒して逃げる馬もあります。
あっという間に、三、四十人ほどの兵がその場で射倒されました。
中には、馬には乗ったが、戦う気力を失い、鞍を打って逃げ出す者もいました。
こうして、沢胯を射取り、首を切りました。

その後、余五は全軍を率いて沢胯の屋敷へ向かいました。
家の者たちは、「我が君が戦いに勝って来たのか」と思い、食べ物を整えて喜んで待っている所に、余五の軍勢がなだれ込み、屋敷に火をかけ、手向かう者は射殺しました。
同時に家の中へ人を入れて、沢胯の妻と侍女一人を引き出し、妻は馬に乗せ、市女笠をかぶらせて顔を隠してやりました。
侍女も同じようにして、余五の馬の脇に立たせ、すべての建物に火を掛けて、「およそ女であれば、上下を問わず手にかけるな。男という男は見つけしだい、射倒せ」と命じたので、片っ端からみな、射殺してしまいました。
なかには、どうにか逃げおおせた者もありました。

焼け落ちてのち、日暮頃になって兵を返しましたが、途中、かの大君の屋敷の門の前に立ち寄り、使者をやって、「我みずからは御門内に参上いたさぬが、沢胯殿の妻女には、いささかの恥もお見せいたさぬ。貴殿の御妹でおありゆえ、それにはばかり申して、間違いなくお連れいたした次第である」と、言い入れさせました。
大君は喜んで門を開き、妹君を受け取り、たしかに頂戴した旨を使者に伝えたので、使者は帰りました。
余五はそこから、もとの屋敷へ帰って行きました。

それ以後、この維茂は東八か国(現在の関東地方)に名を挙げ、いよいよ並ぶ者のない武人と称せられました。
その子の左衛門大夫(さえもんのたいふ)滋定(しげさだ)の子孫は今も朝廷に仕えている、とこう語り伝えているということです。

平維茂戸隠山に悪鬼を退治す図(月岡芳年『新形三十六怪撰』)

【原文】

巻25第5話 平維茂罸藤原諸任語 第五
今昔物語集 巻25第5話 平維茂罸藤原諸任語 第五 今昔、実方中将と云人、陸奥守に成て其の国に下たりけるを、其の人は止事無き公達なれば、国の内に然べき兵共、皆前々の守にも似ず、此の守を饗応して、夜る昼る館の宮仕怠る事無かりけり。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

余五こと平維茂の話。

維茂は平将門を討ち取った貞盛の異母弟・繁盛の子だが、文学博士の野口実氏は、繁盛の子の兼忠の息子・維良(これよし)と同一人物だとしている。
維茂、維良ともに、貞盛の養子で、鎮守府将軍に任じられた官歴を持つ。

鎮守府は奈良・平安時代に陸奥国におかれた軍事機構で、桓武天皇が郡司の子弟を兵士として採用した健児(こんでい)の制をとったのちにも、辺境の陸奥と出羽では一般農民を徴兵した軍団制が継続された。
鎮守府将軍はその長官である。
平安中期以降は名高い武士が任じられる名誉職になった。
維茂は、鎮守府将軍として陸奥国に赴き、そこで領地を取得したと思われる。

藤原諸任は、平将門を平貞盛と共に討った藤原秀郷の子・千時の息子、もしくは子孫だという。
安和2年(969)の変で左大臣・源高明が追放されると、高明を私君としていた秀郷の息子・千晴(ちはる)も遠流となり、秀郷の子孫は中央での活躍の機会を奪われた。しかし、秀郷の子・千常が鎮守府将軍に任じられるなど、地方でその武の力をふるうことを期待された。
秀郷自身も、鎮守府将軍に任じられている。
(ちなみに、『俵藤太』という秀郷の別称は、『今昔物語集』のこの説話が初出)
その関係で、諸任も陸奥国に所領を持っていたと思われる。
後年、平泉藤原氏の初代となる清衡(きよひら)の父・経清(つねきよ)は、秀郷の子孫である。

橘好則(たちばなのよしのり)、通称・大君は、橘惟通(たちばなのこれみち)の子で、『小右記』の作者・藤原実資の家司を務めた橘輔政(たちばなのすけまさ)の孫。
祖父・輔政の甥・則光(のりみつ)は、清少納言の最初の夫で、陸奥守を勤めていた時期があるため、橘一族で則光の従兄弟の子である好則もその縁で陸奥に土着したと推測される。
好則は従五位下の位を持ち、子の致範も正五位下で越中守を務めた。

藤原実方は、左大臣・藤原師尹の孫。その前任の陸奥国司は、維茂の義兄弟・平維叙(たいらのこれのぶ)。
実方は陸奥守任期途中で事故死した。長徳4年(999)に没しているので、平維茂と藤原諸任の戦いはそれ以後のこと。

本話の合戦は、奥州での大乱・前九年の役が起きる52年ほど前の出来事である。


〈『今昔物語集』関連説話〉
平維茂:巻25「平維茂が郎等殺さるる語第四」
藤原実方:巻24「藤原実方の朝臣陸奥国に於いて和歌を読む語第三十七」
平維叙:巻19「陸奥国の神平維叙に恩を報ずる語第三十二」
橘輔政:巻23「平維衡同じき致頼合戦をして咎を蒙る語第十三」
橘則光:巻23「陸奥の前司橘則光人を切り殺す語第十五」


【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

 

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今昔物語集 現代語訳

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