巻二十第四十三話 若い甥のために祈祷しなかった左大将の話

巻二十(全)

巻20第43話 依勘文左右大将可慎枇杷大臣不慎語 第四十三

今は昔、朱雀院(朱雀天皇)の御代、天慶(938-947)のころ、天文博士が「月が大将の星を犯す」という勘文を奉ったことがありました。このことによって、左右の近衛大将は、重く慎しむように言われました。そのときの左大将は、枇杷左大臣仲平(藤原仲平)という人でした。右大将は左大将の甥の小野宮の右大将実頼(藤原実頼)という人がつとめていました。

右大将はさまざまな御祈祷をなさいました。春日の御社(春日大社)、山階寺(興福寺)などです。東大寺の法蔵僧都は左大将の祈祷僧でした。法蔵僧都は奈良の山階寺で右大将が御祈祷なさっているのを聞き、「左大将から、私のもとにも依頼があるだろう」と考え、待っていました。ところが、まったく音沙汰がありません。おぼつかなく思って、京に上り、左大臣の屋敷である枇杷殿(京都御苑内)に参上しました。

大将はお会いになって問いました。
「どうして上京なさったのですか」
「奈良で『左右の大将は慎しむように』という天文博士の勘文がありました。右大将殿は春日御社・山階寺などで御祈祷なさっています。『いずれ殿から私に依頼があるだろう』と考えて待っていたのですが、まったく音沙汰がありません。不審に思って、急ぎ参上した次第です。御祈祷はなさるのが吉と思います」
「もっともだと思います。そのように言われたこともとてもうれしく思います。しかし、勘文は『左右の大臣は重く慎しみなさい』でした。私が右大将と劣らないように慎むのは、右大将のためによくありません。かの右大将は、身の才も賢く、年齢も若い。これからも永く公に仕えるべき人です。私は年も老い、将来もあまりありません。『死んだからといってどうだろう』と考えて、祈らずにいるのです」

僧都はこれを聞いて、涙を流しました。
「それは百千万の祈祷にまさります。その心こそ仏の教えです。我が身を棄て、人を哀れむのは、かぎりない善根です。必ず三宝(仏法僧)の加護があるでしょう。御祈祷なさらないことを、恐れる必要はありません」
そう伝えて帰りました。

その後、左大将は身に病を受けることなく、七十余歳まで生きました。

天の加護があったと見るべきでしょう。人は心をまっすぐに保つべきだと語り伝えられています。

藤原実頼(菊池容斎『前賢故実』)

【原文】

巻20第43話 依勘文左右大将可慎枇杷大臣不慎語 第四十三
今昔物語集 巻20第43話 依勘文左右大将可慎枇杷大臣不慎語 第四十三 今昔、朱雀院の御代に、天慶の比、天文博士、「一月、大将の星を犯す」と云ふ勘文奉れば、此れに依て、「左右近衛の大将、重く慎しむべし」と云へり。其の時の左大将にては、枇杷左大臣仲平

【翻訳】 草野真一

巻十一第十四話 藤原鎌足と不比等が興福寺を築いた話
巻11第14話 淡海公始造山階寺語 第十四 今は昔、大織冠(藤原鎌足)がまだ内大臣になられず、なんの役職にも就いていないとき、女帝・皇極天皇の御代のことです。御子は(中大兄皇子、天智天皇)は春宮(皇太子)でいらっしゃいました。二人はと...
巻十一第十三話 聖武天皇が東大寺建立のために金を請うた話
巻11第13話 聖武天皇始造東大寺語 第十三 今は昔、聖武天皇が東大寺を建造しました。銅で居長□丈の盧舎那仏の像を鋳造させ、巨大な堂を造っておおいました。また、講堂・食堂・七層の塔二基・様々の堂・僧房・戒壇・別院・諸門、それぞれをつく...
巻二十五第八話 源頼親、清原致信を討つ(欠話)
巻25第8話 源頼親朝臣令罸清原□□語 第八(欠文)【解説】 柳瀬照美本話は、表題だけをとどめる本文欠話。表題から推測すると、寛仁元年(1017)3月8日、源頼親(みなもとのよりちか)が郎等に命じて、前大宰少監・清原致信(きよはらのむ...

コメント

タイトルとURLをコピーしました