巻20第44話 下毛野敦行従我門出死人語 第四十四
今は昔、右近将監(うこんのしょうげん・右近衛府の三等官)下毛野敦行(しもつけののあつゆき)という近衛舎人がいました。
若いころから人望のあった者です。
容貌・人品・風采・人柄をはじめ、乗馬の術も素晴らしかったものです。
朱雀天皇の御代いらい、朝廷に仕え、村上天皇の御代はその全盛期で、非の打ちどころのない舎人でありました。
やがて、しだいに年月も積り老齢に達してから、法師になって西の京の家に住んでいましたが、あるとき、隣家の主人が急死したので、この敦行入道は悔やみを述べに、その家の門前へ行き、死んだ人の子に会って、父親の臨終の模様など話していると、その子が言います。
「じつは、死んだ父を家から送り出そうと思うのですが、この家の門は、たいへん悪い方角に当たっています。ならば、どのようにしたらいいでしょう」と言い、「たとえ方角が悪くとも、この門から出さないわけにもいきません」と話しました。
入道はこれを聞き、「それはとんでもないことです。あなた方のために、絶対忌むべきことです。それでは、私の家との境の垣根をこわさせ、私の家の方角から、お出しするようになさい。父御はお心の正しい方で、長年、私のために何かにつけて情けをかけてくださいました。それゆえ、このようなときにこそ、その恩返しを申さねば、どうしてご恩返しができ申そう」と言います。
これを聞いた故人の子どもたちは、「とんでもないことをおっしゃる。他人の御家のほうから、死人を運び出すというようなことは、絶対あってはならぬことです。たとえ忌むべき方角だといっても、やはりこの門から運び出さねばなりません」と言いました。
すると入道は、「あなた方、つまらぬことを申されるな。ぜひ、私の家の門からお出しくだされ」と言って、帰って行きました。
家へ帰って、自分の子どもたちを呼び、「隣のご主人が亡くなられ、まことにお気の毒に思われたので、お悔みに行ったところ、そのご子息たちが、『死人を運び出す門は忌むべき方角であるが、門は一つしかないので、そこから運び出そう』と言っている。だが、わしはたいへん気の毒に思ったので、『私の家との境の垣根を壊し、私の家の方から運び出しなさい』と言ってきたぞ」と言いました。
妻子たちはこれを聞き、「とんでもないことをおっしゃったものだ。堅く穀断ちをし、世を捨てた聖人だって、こんなことは絶対に言うはずがありません。人を哀れみ、我が身はかえりみないといっても、自分の家の門から隣の家の死人の車を出す人が、これまでにあったでしょうか。まったく呆れ返ったことです」と、口々に、そろって言い合いました。
それを聞いた入道は、「おまえたち、身勝手なことを言うものではない。ただ、わしに任せておけ。おまえたちの分別に決して、わしは劣るまい。だから、馬鹿な親の意見でも、それに従うのが良いのだ。いいから、わしのすることを見ていよ。[強く]物忌みする者は、短命で子孫が絶える。物忌みをしない者は、長生きができ、子孫が栄えるのだ。ただ、人の恩を知って感謝し、我が身をかえりみず恩返しをするものこそ本当の人間というのだ。そういう人を天道も哀れみなさるだろう。故人は生前、事に触れて、わしに情けをかけてくれた。どうして恩返しをしないでいられよう。おまえたちも、つまらぬことは言わぬものだ」と言って、従者たちを呼び、境の檜垣をどんどん壊させて、そこから死人の車を出させました。
その後、このことが世間に広まり、しかるべき身分の人も下賤の者も、入道をほめ尊びました。
まことに、このことを思うと、まれにみる広い慈悲心を持った人であります。
天道はこれを哀れみなさったのであろうか、そののち、入道の身に何の障りもなく、九十歳ほどで亡くなりました。
そして、その子孫はみな長命で幸福に恵まれ、現在もその下毛野氏は、舎人の中でも繁栄を続けています。
しかれば、これを見聞きする人はよく考えて、人のために情けをかけるべきである、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
平安時代の葬送では、死んだと分かると、白い衣を着せて北枕にし、逆さ屏風を置く。そして近親や役僧が沐浴と入棺をし、種々の調度品も棺に納めた。
葬送までの間、モガリとして数日、棺の前に朝夕の膳を置き、読経・供養が行われた。
これらの儀式や入棺・出棺の日時方向および葬送の地は陰陽師が決めることになっている。
出棺は夜行われ、近親家族が焼香して別れをつげ、陰陽師が決めた方角から棺を出し、牛車に乗せる。
葬列が整うと、喪主以下、家族・親族が喪服を着け、白杖をとって徒歩で棺に従い、その他の役僧・会葬者などがこれに続き、葬地に至って式を執り行う。
葬式が終わると、会葬者は帰宅。遺骸は土葬または火葬にされ、平安時代は火葬が普通だった。
火葬の場合、火屋を建て、その前に鳥居を立て、火炉を築いて棺をその上に安置し、終夜これを焼いて翌日、拾骨の式を行う。
遺骨は壺に納め、葬所の土中に葬り、墓の上に石の卒塔婆を建てる。
(『平安朝の生活と文学』より抜粋)
以上が富貴な人たちの葬送の様子で、現代とほぼ変わりない。しかし、火葬が出来るのは豊かな家の人だけで、たいていは葬儀もなく、風葬、野ざらしが普通だった。皇族でも六歳以下の子どもは山に遺骸を捨てるのか慣習であったという。
下毛野敦行が職を辞して晩年に住んだ西京(右京)は、いわば下町。
寝殿造りの代表的な例として教科書などに載っている藤原氏所有の東三条殿は、周囲に築地塀をめぐらし、北に通用門、東西に総門を造り、主殿の他に多くの対屋と池のある庭が付随する。これは左京に住む高位貴族の屋敷である。
下町ではこんな豪華な屋敷はなく、隣家も垣根が檜の木、出入りする門が一つしかない慎ましい造りだった。それでも故人の葬儀が出来るほど富裕であって、近衛府の三等官・将監だった敦行と親しく付き合うなど、同じ階級の下級官人の一家だと推察される。
平安時代は陰陽道によって、生活全般が規制されていた。
門が一つしかない隣家はその方角が悪く、故人を門から送り出すと家族に禍が降りかかると占われたのだろう。それでも、強行しようとした故人の子息たちへ、敦行は妻子の反対を押し切り、良き方角の自分の家から棺を出させた。
妻子の反対の理由として、死穢を忌む当時の風習があった。死穢や産穢などの穢れに触れると、あとで物忌みをしなくてはならない。
けれども敦行は、そんな常識より故人との情義を重んじ、結果として長寿と子孫繁栄を得た。
〈『今昔物語集』関連説話〉
巻23『兼時敦行競馬の勝負の語第二十六』
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『平安朝の生活と文学』池田龜鑑著、角川書店
コメント