巻20第36話 河内守依慳貪感現報語 第卅六
今は昔、河内国讃良郡(かわちのくにささらのこおり・現在の大阪府北河内郡)に郡司の男がいました。
心に三宝(さんぽう・仏、法、僧のこと)を信じて、深く後世を恐れていたので、仏像を描き、経を写し奉ったりしましたが、長い間供養をしないでいました。
晩年になり、一生の貯えを投じて、吉日を選んで供養を営むことにしました。
比叡山の□□阿闍梨という人を特に山からお招きして講師(かうじ・説教、講説をする僧)に迎えました。
さて、その当日、供養の法会が始まると、国中の上下の人びとが聴聞に来て、市のように群がり集まり居並びます。
施主の郡司は高座の下近くで合掌してうずくまっています。
やがて、講師が声を張り上げて表白(ひょうびゃく・法会の主旨をしるした文を仏前で読み上げること)を唱えようとするとき、居並ぶ聴衆が突然、板敷からあわててばらばらと飛び降り、がやがや言い始めました。
施主が、「どうしたのだ」と訊いても誰も答えません。
講師も[あきれ]て、しばらくものも言わずにいましたが、やがてたいへんな年寄りの国司□□という人が、(自分で歩くことができず)郎等たちに馬から抱き下ろされ、背負われてやってきました。
板敷に上がって、中央部の部屋に坐り、「『ここで尊い仏事が行われる』と聞いて、『結縁(けちえん・仏縁につながること)しよう』と思い、やって来たのだ」と言って手を合わせ、講師に、「早く表白をお唱えください」と勧めます。
講師は心中、「たわいもない田舎者ばかりが聴聞しているので、闇夜の説法かと落胆していたが、この国司は老齢ゆえ、昔の観行の様子などもよく聞き集めているだろう。また、学才の点でも当代一流の者だから、しかるべき因縁・比喩の話も聞き知っていよう。この男が聴聞するなら、大いに学を傾けて聞かせてやろう」と思い、声を張り上げ、扇を開いて構え、如意(読経の際僧がもつ)を高々と振り上げ、腕をぐっと伸ばして、まさに説経を始めようとしたとき、守(国司)が、「私はお参りに来て、すっかり疲れた。結縁さえすれば結構。退出して休息しよう」と言って立ち上がり、講師のために[設けた]控室の方に行ってしまいました。
そこで施主も、説経を途中で止めて、守の許へ行きました。
守も施主も行ってしまったので、講師はなんともあきれる思いであります。
そこで、「せめて施主が帰ってきてから説経を終わらせよう」と思い、ただなんということもないつまらぬ話をいつまでもぐだぐだやっていました。
前もって考えていたことがみな食い違ってしまったので、説経の良し悪しのわかる者がいないままに、いい加減なことをしゃべっていたのでした。
とはいえ、「言っていることはみな法文に関することだから、功徳にはなろう」と思うにつけ、たまらなく情けないことです。
一方、守の前には食膳など備えたので、守は、「なかなか結構だ。腹もへっているので頂戴しよう」と言い、酒も二、三杯ほど飲みました。
そして施主に、「あの講師は当代の尊い名僧でいらっしゃる。なまなかの布施では世の笑いものになろう。だが、こういうことは田舎者ではわかるまい。どのように用意したのか、出して見せろ。包み方も調べてみたい。また、布施は供の郎等たちに取らせよう」と言ったので、施主は喜び、説経も聞かないで罪を得るだろうと心配していたのに、守がこう言ってくれたので嬉しく思い、布施を取り出して、三包み、守の前に置きました。
一包みに綾三十疋、一包みに八丈絹三十疋、一包みに普通の絹五十疋。どれも小奇麗な絹で包んであります。
守はこれを見て、「なかなかよく整えたな。そなたはえらい物知りだ。その上、たいへんな財産家だから、かようにするのも道理である。ところで、そなたには納めねばならぬ租税が多くあるのだぞ。これはその代わりとして、わしがもらおう。また講師には別の品を取り出して、これと同じように、数劣らず、すぐに包んで差し上げねばならぬ。決しておろそかにするなよ」と言い、「おい、みんな、これを持って行け」と言うと、郎等が二人出て来て、三包み全部を抱え取って行きました。
その後、守は馬を引き出させ、這うように乗って行ってしまいました。
施主は目も口も大きくあけ、ぼう然としていました。
しばらくして、目から大きな涙を雨のように落とし、ひたすら泣きに泣きます。
そのまま泣き入って、うつ伏してしまったので、子どもや親類などが気の毒がり、めいめい奔走し、質のあまりよくない絹を三十疋ほど探し集めて来て、講師の布施にしました。
そのとき、施主は高座にいる講師の所へ行き、「あんな外道に功徳を妨げられたのは、悲しいことです」と言って大声で泣き出したので、講師は説経する気もなくなってやめてしまい、高座から降りて、「どうしたのです」と訊きましたが、泣き入って答えがありません。
息子の一人がやってきてはじめて、「こういう次第です」と言うと、講師は、「何も嘆かれることはありません。拙僧は布施がなく[ても]、決して不満に思いませぬ。あなたはすでにご老体とお見受けします。しかも、さほど裕福でもない身に、長年の貯えをこの法会の費用に貯えて置き、やっと素志を遂げようとしたのに、にわかに大悪魔が出現して妨げたというのは、拙僧の功徳の至らぬ結果と思われます。しかしながら、拙僧といたしては道心を起こし、専心経文を講釈いたした以上、『死後の極楽往生は疑いなし』と、お思いなされ。これも講師の説経がおろそかだったので、悪魔に妨げられたのでしょう。拙僧への布施に手違いのあったことなど、かようにお話を伺った上は、いただいたも同然です。これ以上、嘆かれることはありませんぞ」と言ったので、施主は、「そのように仰せられて、うれしいことでございます」と泣く泣く言いました。
それでも講師は心の内で、「国司め、ひどい罪作りをするものだ」と思い、京に上って憎さの余り、このことを言い広めました。
その後、国司はまもなく死んでしまいました。
これを思うに、国司は後世にどれほどの罪を受けるのでありましょうか。
人は決して、見るものに心奪われて、このような仏物の盗用をしてはならない、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 柳瀬照美
本話は、慳貪(けんどん)と仏物欺用の罪を戒めたもの。
もともと律令体制下では、任命されるために試験があるにしても、国造(くにのみやつこ)の子孫を優先的に郡司に任命するのが建て前だった。
郡司は、税の徴収・出挙(すいこ・稲の貸借)・灌漑施設の造営と修造・労働力の徴発などを行っており、国司は郡司なしに地域を支配するのが不可能な状況だった。
ところが弘仁年間、つまり平安京へ遷都してしばらく後の嵯峨朝の頃から、国司の推薦どおりに郡司が任命されるようになる。
また、税を人でなく田にかける負名体制が成立すると、受領国司が直接、在地に検田使や収納使などの使者を派遣して掌握したので、郡司はしだいに文書作成や徴税などを行う国司の下請けのような存在となっていった。
この話でも、河内国の郡司が、こつこつと貯めた財産で仏経供養の法会を催した際に、国司が押しかけ、未納の税があることを責めて仏へ納めるべき財物を横取りしてしまう。
これによって、当時、受領国司が郡司をいかにないがしろにしていたか、がよく分かる。
もっとも、『今昔物語集』らしく、強欲非道な国司は冥罰があたって、まもなく死んでしまうのだが。
〈『今昔物語集』関連説話〉
受領について:巻28「信濃守藤原陳忠御坂に落ち入る語第三十八」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
全集 日本の歴史 第4巻『揺れ動く貴族社会』川尻秋生著、小学館
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