巻二十第三十五話 嫉妬のために不幸な末路を迎えた僧の話

巻二十(全)

巻20第35話 比叡山僧心懐依嫉妬感現報語 第卅五

今は昔、比叡の山の東塔に、心懐という僧がありました。法を学ぶために山にありましたが、年が若く学問しても学ぶことがすくなかったので、山にも住みがたくなりました。ちょうど美濃(岐阜県)の守□という人があり、その人について美濃に入ることになりました。守の北の方(奥方)の乳母の養子になったのです。国司(守)はその縁で、方々に連れ回ることになりました。美濃の人はこの僧を一の供奉(ぐぶ)と呼び、かしこまり敬いました。

やがて、美濃に疫病が流行り、病死する者が多くなりました。国の人はこれを歎き、守が京にいるときに申し上げて、国の人が心をひとつにあわせ、南宮という社の前で、百座の仁王講(百人の僧で仁王経を詠む法会)を開催することを願いました。経に説かれたとおり、力を尽くして、厳しく大会を開きました。必ずその験があるように、国の人はみな一心に祈り、一人として喜捨をしない者はありませんでした。大きな幡(はた)を懸け並べ、千の灯をあげ、音楽を奏でました。

南宮大社拝殿

その惣講師(首席)には、懐国供奉という人が招かれました。筑前(福岡県)の守、源道成朝臣の弟です。学識も人に勝れ、説経にも長じていました。また、兄に似て、和歌をよくし、物語もよく知る人でした。多くの人はこの人を敬って遊び戯れ、人気ある名僧でした。以前は後一条天皇の御読経衆を務められていましたが、天皇が崩御され、世情も変わり、年も老い、縁もなく、阿闍梨にもなれず、頼みとしていた天皇はなくなってしまいました。寄る辺なく思えて哀れを感じ、
「今は世にあっても(生きていても)することはない」
と感じ、道心を発して、美濃国で貴い山寺に籠っておりました。国の人は、「招請するならばこれほどの人でなければならない」と思っていたところに、国内にあったので、たいへんな便宜を感じ、お招きすることになりました。

この人は、比叡の山にてはやんごとなき人でした。弟子たちもすばらしい人々で、学生(がくしょう)として山にありました。「まず案内をいたしましょう」と言って招きつつ、このように講師を受けた理由を内々に問うと、
「聞けば、国のための祈りだといいます。私はこの国にお世話になっています。どうしてお断りすることがありましょう。必ず出ようと思っておりました」と答えました。

その日になりました。惣講師は房に入り、法服をつけました。輿があつらえられ、天蓋をささげ、楽人は音楽を奏でました。惣講師は香炉を取り、輿に乗り、天蓋をさし、高座に登りました。ほかの講師たち百人も、みな高座に登りました。百の菩薩像と百の羅漢像が美しく並べられました。たくさんの造花も瓶に差してありました。さまざまな供物が捧げられました。

惣講師がまず申し上げるために、仏の前に立ったとき、かの供奉が、兜の袈裟を着て、袴の扶(くくり)を上げ、長刀をたずさえた怖し気な法師原(法師ども)の七、八人ほどをつれ、高座の後に来て、三間(約5.4メートル)ほど離れ、脇をあげ扇を高くして怒鳴りました。
「比叡の山にあったとき、私はあの講師の御房をやんごとなき学生としてはるかに見ていた。しかし、この国においてては、守の殿は私をこそ、国の第一の法師として用いられている。他の国ならいざ知らず、この国の内では、貴い人も民衆も、功徳をつくる講師には、私を一の供奉として請じている。御房はやんごとない方かもしれないが、私をこそ請ずべきなのだ。私をさしおいて、かの御房を請じるのは、守の殿を無下に蔑ることではないか。今日は御房が講師をつとめるべきではない。お気の毒なことだ。法師原よ、こっちに来い。かの講師の御房のおられる高座を覆せ」
たちまち法師原が寄り、高座をひっくりがえそうとしました。惣講師は転げ落ち、背が低いものだから、まっさかさまに倒れていまいました。講師の従の僧たちは、あわてて惣講師を助けつつ、高座のわきから逃げだしました。その後、一の供奉は、かわりに高座に飛び登り、怒りとともに法会の儀礼をおこないました。従の講師たちは、呆然として、行どころではありません。大混乱になりました。国の者たちも、未だ一の供奉に会ったことがない者は、かかわりあいになることを恐れ、後の方より逃げて行きました。人は少なくなりました。

法事が終わると、惣講師のために用意されていた布施などは、みな一の供奉が取ってしまいました。その場に残っていた国の人たちの顔や気色は、まったく不本意そうでした。

その後しばらくして、守の任が終わったため、一の供奉も京に上ることになりました。守は二、三年後に亡くなったので、一の供奉も頼りになる人をなくし、生活の手立てを失っていました。

そのうち、白癩(ハンセン病)にかかり、祖と契った乳母も、「穢れがある」といって、近寄ることができませんでした。行くところもなく、清水、坂本の庵に住みました(不治の病にかかった人の療養施設に行った)。そこでも、片輪者の中で嫌われて、三日ほどで死にました。

これはまちがいなく、大切な法会をさまたげ、自分が至らないにもかかわらず、やんごとなき僧を嫉妬したために、生あるうちに報いを受けたものです。嫉妬の心を起こしてはなりません。嫉妬は天道の憎むところであると語り伝えられています。

【原文】

巻20第35話 比叡山僧心懐依嫉妬感現報語 第卅五
今昔物語集 巻20第35話 比叡山僧心懐依嫉妬感現報語 第卅五 今昔、比叡の山の東塔に、心懐と云ふ僧有けり。法を学びて山に有けるに、年若くして、指せる事無かりければ、山にも住得ざりける程に、美濃の守□□のと云ふ人有けり。其の人に付て、彼の国に行ぬ。守の北の方の乳母、此の僧を養子(とりこ)とす。然れば、国司、其の縁に...

【翻訳】 草野真一

【解説】 草野真一

仁王経は護国の経とされ、天変地異の際には各地で大規模な法会が開催された。ハンセン病など当時の医療では不治の病にかかった人は乞食宿のようなところに隔離され、そこで孤独に命果てるほかなかった。

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