巻24第42話 朱雀院女御失給後女房読和歌語 第四十二
今は昔、朱雀院の女御(慶子)と申し上げる方は、小野宮太政大臣(藤原実頼)の御娘であります。
この女御は、はかなくお亡くなりになってしまいました。
ところで、この女御のお側にお仕えしていた女房がありました。
その名を、助(すけ)といいました。
容貌・人柄をはじめとして、風雅の心得がある者でありましたので、女御はこれを身近に置いて、おかわいがりになられたので、女房のほうでも心からお慕い申して、お仕えしていました。
そのうち、女房は常陸守(ひたちのかみ・茨城県東北部の国司)の妻になって、夫の任国に下りました。
女御には申し訳なく思いましたが、□□が強く誘ったので、国には下ったものの、女御を恋い慕い申し上げていました。
あるとき、「女御にお目にかけよう」と、美しい貝をたくさん拾い集め、ひと揃いの箱に入れて京に持参しましたが、「女御がお亡くなりになった」と聞いて、いいようもなく泣き悲しみました。
けれども、もはやどうしようもなく、そのひと箱の貝を、
「これを御誦経のお布施にあててくださいませ」
と言って、太政大臣に奉りましたが、貝の中に助のこのような歌が書いて入れてありました。
ひろひ置きし 君も渚の うつせがい
今はいずれの 浦によらまし
(我が君に差し上げようと心を込めて拾って置いたこの貝殻ですが、我が君がおいでにならないと聞いて、これからのわたくしは肉のない貝殻同様、いったい誰を頼りにして生きていったら、よいのでしょうか)
太政大臣はこれをご覧になられて、涙にむせ返り、泣く泣くこうご返歌なさいました。
たまくしげ 恨みうつせる うつせがい
君ががたにと ひろふばかりぞ
(お前の深い思いの移し込められたこの箱の貝殻を、わしは亡き娘の形見として拾うばかりであるぞ)
実際、当時はこれを聞いて、泣かぬ者はなかった、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
朱雀天皇は醍醐天皇の第11皇子で、母は宇多天皇のとき、初めて関白となった藤原基経の娘・穏子。村上天皇の同母兄。
この朱雀天皇の女御・慶子は、藤原忠平の長子・藤原実頼の娘。天慶5年(942)10月5日に没っしている。
慶子が女御のとき、摂関・太政大臣は祖父・藤原忠平で、父の実頼が太政大臣となったのは、村上天皇の皇子・冷泉天皇のときである。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
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