巻二十四第四十五話 小野篁、隠岐に流され歌を詠む

巻二十四(全)

巻24第45話 小野篁被流隠岐国時読和歌語

今は昔、小野篁(おののたかむら)という人がいました。

ある罪により、隠岐国(おきのくに・現在の島根県隠岐諸島、中世まで流刑地)に流されたとき、船に乗って出発しようとして、京の知人の許に、こう詠んで送りました。

海(わた)の原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬ 
人には告げよ 海人(あま)の釣り舟

(篁は大海原に浮かぶ数多の島々をぬって遠く漕ぎ出して行ったと、京の人に告げてくれ。沖に釣りする漁師よ)

明石という所に行って、その夜、泊まりました。
ときは九月ごろのことで、夜明けまで寝つかれず、しみじみと海の上を眺めていましたが、沖の船が島影に隠れて見えなくなってゆくのを見て、物悲しく思い、このように詠みました。

ほのぼのと 明石の浦の あさ霧に
島隠れゆく 舟をしぞ思ふ

(ほのぼのと立ちこめている明石の浦の浅霧の中に島隠れ行く船を見れば、しみじみと哀れに思われることである)

と詠んで、泣きました。

これは篁が京に帰ってから語ったのを聞いて、こう語り伝えているということです。

参議篁(小野篁)(百人一首より)

【原文】

巻24第45話 小野篁被流隠岐国時読和歌語 第四十五
今昔物語集 巻24第45話 小野篁被流隠岐国時読和歌語 第四十五 今昔、小野篁と云ふ人有けり。 事有て、隠岐国に流されける時、「船に乗て出立つ」とて、京に知たる人の許に、此く読て遣ける。

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

小野篁について

小野篁(おののたかむら・802-853)は、遣隋使として中国へ赴いた小野妹子の子孫で、漢詩に優れ、侍読(じどく・天皇の家庭教師)を務めた参議・岑守(みねもり)の子で、嵯峨・淳和・仁明・文徳の四代の天皇に仕えた。
草隷の書が巧みで漢詩・和歌にも秀で、博識、法にも明るかった。その反骨精神から野狂とも称された。
篁は承和2年(834)に第19次の遣唐副使に任命されるが、大使の藤原常嗣の専横に怒って、病と称して乗船しなかった。このときのことを恨みの気持ちを含んで風刺した漢詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りをかい、隠岐国へ流された。
これは、そのとき詠んだ和歌にまつわる話である。

後鳥羽上皇の隠岐配流を描いた障壁画 (安土桃山時代、1600年頃)

遣隋使・遣唐使について

中国・隋王朝の先進的な文化の摂取と朝鮮半島における新羅との関係を有利にするため、推古天皇の時代、推古8年(600)から推古26年(618)の隋の滅亡まで、18年間に3回から5回、遣隋使が派遣された。

第一回の派遣の際には、外交儀礼にうとく、国書も持たずに赴いた。『隋書』にあって、『日本書紀』には、この第一回の記述はない。
推古25年(607)の第二回には、小野妹子が「日出処の天子」の国書を持参し、煬帝の勅使として裴世清が派遣されるという厚遇を受けた。
翌年の第三回は、裴世清を送るため、小野妹子が再び派遣された。留学生も多く、その中にいた高向玄理・南淵請安・僧侶の旻らは、隋から唐への政権移行の混乱を体験し、帰国後に蘇我入鹿殺害から始まる〝大化の改新〟へ影響を与え、貢献した。

遣隋使も遣唐使も、朝貢の形をとっていたが、倭の五王時代と違い、冊封(さくほう・君臣関係)を受けなかった。また、『日本』という名称を使うのは、遣唐使からである。

遣唐使も中国の先進的な技術や政治制度、文化、そして仏教経典などの書籍の蒐集を目的とした。
第一次遣唐使は舒明2年(630)で、大使は遣隋使として渡航経験のある犬上御田鍬が務めた。
朝貢は本来、年1回行うのが原則だが、遠国であるため、日本は毎年でなくても良いとされた。よって、ほぼ20年に1度ほどの派遣が200年以上にわたって行われた。

遣唐使船は現在の大坂住吉の住吉大社で安全祈願を行い、住吉津から出発。細江川から大阪湾へ出て、難波津へ寄り、瀬戸内海を通って、博多にあった那大津から出航した。
630年から665年までは北九州から朝鮮半島西海岸をへて、山東半島の登州へ至る北路が使用されたが、百済・高句麗の滅亡など半島情勢の変化で、702年から838年までは五島列島から東シナ海を横断する南路に代わる。
遣唐使は朝貢使であるため、元日朝賀に出席するには12月までに都へ入らなければならなかった。そのため、気象条件の悪い6月から7月に日本を出航し、また帰国せざるを得なかったことと、南路では直接、東シナ海を突っ切るため、遭難が頻発し、命がけの航海となった。

上海万博に際し復元された遣唐使船

飛鳥・奈良時代は、白雉4年(634)出発の船に、後に僧・行基の師となる道昭、大宝2年(702)には山上憶良、養老元年(717)には阿倍仲麻呂、吉備真備、僧・玄昉、平成16年(2004)に西安(長安)で墓の見つかった井真成らが留学生として唐へ渡っている。
天平勝宝4年(752)の遣唐使は、逸話が多い。
このときは、大使を藤原北家の清河、副使には吉備真備・大伴古麻呂が務めた。
長安で玄宗皇帝に拝謁し、朝賀の席次が新羅の下であったので、抗議して席を交換させた。
また、唐で高官となっていた阿倍仲麻呂を伴い、四隻で帰路につくが、搭乗を唐から禁止されていた鑑真を第1船の清河は降ろすものの、第2船の古麻呂は秘密裏に乗せた。結局、鑑真らを乗せた第2船と吉備真備の第3船は漂流しながらも帰国できたのだが、暴風雨に遭い、難破して九死に一生を得た清河と仲麻呂は長安に帰還し、日本に戻れないまま、その地で没した。

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平安時代になってからは、延暦23年(804)と承和5年(838)の2回しか送っていない。
延暦23年の遣唐使には、最澄・空海・橘逸勢が乗船し、彼らの乗った第1船と第2船だけが中国へ到着した。翌年の遣唐使船で短期留学だった彼らは帰国している。

その後、30年経ってから遣唐使が派遣されることになり、小野篁が副使となった。
二度、渡航に失敗し、三度めのとき、大使の藤原常嗣が破損した第1船と副使の篁の乗る予定の第2船を交換した。これを不服とした篁は親の介護と自らの病を理由に渡航を拒否する。副使不在で船は出航するが、総勢600余人のうち4分の1ほどの人命が失われ、残った者も40数名しか長安行きの許可が下りなかった。このときの船には、最澄の弟子の円仁が乗っている。

この56年後の寛平6年(894)、菅原道真を大使、紀長谷雄を副使として遣唐使の派遣が計画された。しかし、安史の乱以後、唐の律令制が変質したこと、唐や新羅の商人が博多に来航して私貿易がさかんに行われ、渤海使も来朝するようになって、遣唐使を派遣する必要性がなくなってきたこと、大陸が戦乱で荒れていることなどによって、道真の建議で停止。その13年後に唐が滅亡したことにより、遣唐使は廃止されたのだった。

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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『日本の歴史 第3巻 律令国家と万葉びと』鐘江宏之著、小学館
『日本の歴史 第4巻 揺れ動く貴族社会』川尻秋生著、小学館

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