巻24第29話 藤原資業作詩義忠難語 第廿九
今は昔、藤原資業(ふじわらのすけなり)という文章博士がいました。
鷹司殿(たかつかさどの・源倫子)の御屏風の色紙形に書く詩を、詩文の達人である博士たちにお命じになり、詩をつくらせましたが、この資業朝臣の詩が数多く採用されました。
そのころ、斉信民部卿大納言(ただのぶのみんぶのきょうのだいなごん、藤原斉信)という人がいました。
学才豊かで詩文に達していたので、勅命により、この詩の選定をなさいましたが、資業の詩が数多く採用されたのを、当時、藤原義忠(ふじわらののりただ)という博士がいて、ねたましく思ったのか、□□でおられた宇治殿(うじどの・藤原頼通)に訴えました。
「この資業朝臣の作った詩は、どれも非常におかしな詩であります。平声(ひょうじょう・漢詩の韻の一つ)でない、他声(たしょう・漢字の韻の四声のうち、平声以外の上声・去声・入声の三声のこと)の字が多くあります。じつに欠点の多い詩です。しかし思うに、資業が現職の受領であるため、大納言は彼に袖の下でももらって、採用なさったのであります」と。
当時、資業は□□守でありました。
民部卿はこのことを耳にして激怒し、これらの詩はみな立派なすばらしい辞句のもので、選定には私情を交えてはいないと弁明されたので、宇治殿は義忠の言うことを、とうてい納得いかないことだとお思いになり、義忠を召して、
「どういうわけで、あのようなでたらめを申し立て、ことを紛糾させようとするのか」
と責め咎められました。
義忠は恐縮して、蟄居(ちっきょ)しました。
翌年の三月になって、これは許されました。
ところが、義忠はある女房に託して宇治殿に和歌を奉りました。
青柳の 色の糸にて 結びてし
恨みを解かで 春の暮れぬる
(撰者の色糸の詩句を非難したため、お咎めを受けた恨みが晴れぬまま、いつか三月ともなり、春も終わってしまったことだ)
その後は、これといった仰せもなく、そのままに終わりました。
思うに、義忠にしても、何か非難すべき理由があって非難したのでありましょう。
ただ、民部卿が当時人望のある人であったので、「私情を交えるという評判を取らないように」という配慮からお咎めがあったのでありましょうか。
また資業にしてみても、人の非難を受けるような拙劣な詩は、よもや作らなかったことでありましょう。
こういう争いも、ただ才を競うことから起きた出来事であります。
しかし、義忠が民部卿に対して放言したのは、良くないことだと、人びとは言って、義忠を非難した、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
「屏風の色紙形」とは、屏風の面に紙をかたどった空白を設け、それに漢詩または和歌を一首、書きつけるようにしたもの。
鷹司殿は、藤原道長の妻・従一位源倫子の邸宅。倫子は、宇治殿こと藤原頼通と中宮・彰子の生母である。
以下は登場する三人の経歴。
藤原資業(988-1070)の父は、参議・有国。母は一条天皇の乳母・典侍の橘徳子。
儒者で、行政官である弁官在任中に、東宮学士・蔵人などを兼任し、のち文章博士。丹後守、式部大輔、播磨・伊予守などを歴任した。従三位までのぼる。晩年、出家し、法名は素舜。日野法界寺薬師堂を建立した。
藤原斉信(967-1035)は、右大臣・藤原師輔の九男として生まれた。母は太政大臣・実頼の嫡男・敦敏の娘。
藤原道長の腹心の一人として支え、藤原公任・藤原行成・源俊賢と共に、一条朝の四納言と称される。詩文に長じた。
藤原義忠(984-1048)は藤原氏の主流である北家ではなく、式家の出身で儒者、合格が難しいという『方略試』、別名『対策』にうかったエリートで、弁官を経て式部少輔、文章博士、東宮学士、大学頭となり、最終官位は正四位下。歌人としても知られる。
本話に語られる鷹司殿の屏風詩についてのいざこざは、事実譚らしいとのこと。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
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