巻24第30話 藤原為時作詩任越前守語 第三十
今は昔、藤原為時(ふじわらのためとき)という人がいました。
一条天皇の御代に、式部丞(しきぶのじょう・式部省の三等官)を勤め上げた功労により、国司になりたいと願い出ましたが、除目(じもく・任官の儀)のときに国司が欠員になっている国がない、というので、任じられませんでした。
そこでこれを嘆き、翌年、除目の修正が行われた日、為時は博士ではありませんが、たいそう文才のある人物であったので、上申書を内侍(ないじ・上奏、伝宣を司る内侍所の女官)を介して天皇に奉りました。
その中に、次の句がありました。
苦学の寒夜、紅涙襟をうるおす
除目の後朝、蒼天眼(そうてんまなこ)に在り
(苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼)
内侍はこれを天皇のお目にかけようとしましたが、天皇はそのときご寝所にお入りになっていて、御覧になりませんでした。
ところで、御堂(みどう・道長)は当時、関白でいらっしゃったので、除目の修正を行われるため、参内なさって、為時のことを奏上なされましたが、天皇は為時の上申書を御覧になっておられなかったので、何のご返答もなされませんでした。
そこで関白殿が、女房にお尋ねになると、女房が、
「じつは、為時の上申書をお目にかけようとしましたとき、主上はすでにお休みになっておられ、御覧になりませんでした」
と、お答えしました。
そこで、その上申書を探し出して、関白殿が天皇にお見せなさいましたところ、この句がありました。
関白殿は、この句の素晴らしさに感心なさって、ご自分の乳母子であった藤原国盛(ふじわらのくにもり)という人がなるはずであった越前守をやめさせて、にわかにこの為時をそれに任じられました。
これはひとえに、上申書の詩句に感心なさったためであり、世間でも為時を褒め称えた、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
藤原為時(949-1029)は、紫式部の父。
菅原道真の孫で文人の文時に師事し、文章生となる。花山天皇が東宮のとき、副侍読を務め、天皇が即位すると、式部丞・六位蔵人に任ぜられる。しかし、藤原兼家・道兼に欺かれて花山天皇が退位すると、官職を辞した。
一条朝では職に就かない散位(さんに)であったが、長徳2年(996)に従五位下・越前守に叙せられ、娘の紫式部を伴って任国へ下る。
寛弘6年(1009)に正五位下・左少弁に任じられ、寛弘8年(1011)に越後守となる。
長和5年(1016)、三井寺にて、出家。
漢詩・和歌に優れた文人であった。
地方官である受領のポスト争いは熾烈で、嘆願・賄賂が横行したことはよく知られている。
実際の藤原為時は、欠員がなかったから任官されなかったのではなく、下国の淡路守に任じられたのを不服として詩を献じた。
諸国は、面積・人口・産物などによって大国・上国・中国・下国の四階級に分けられていた。越前国は、大国である。
その詩才によって越前国に任じられた為時だが、一方で越前守を辞退させられた源(藤原)国盛は、落胆のためか、病となり、その秋に大国の播磨守に任じられたが、まもなく病没している。
本話は、詩徳によって任官したとの美談であるが、越前守交代における裏話としては『権記』『小右記』によると、前年の長徳元年(995)9月24日に隣国若狭へ宋の商人が来着する事件があり、その後、若狭や越前に逗留していることから、交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれた、という。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
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