巻24第44話 安陪仲麿於唐読和歌語
今は昔、安陪仲麿(あべのなかまろ、仲麻呂。百人一首でも仲麿と表記)という人がいました。
遣唐使として、さまざまなことを習うために、かの国へ渡りました。
長年、帰国できませんでしたが、その後また、日本から遣唐使として行った[藤原清河]という人の帰国に伴って「帰ろう」とし、明州(めいしゅう・浙江省寧波付近)という所の海岸で唐の人が送別の宴を催してくれた際、夜になって月がたいそう明るく照っているのを見て、ちょっとしたことにも故国のことが思い出され、恋しく悲しく、日本の方を眺めて、このように詠みました。
天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に いでし月かも
(遠く空の彼方を仰ぎ見ると、こうこうと月が輝いている。あの月は、我が国の三笠山に出ていた月なのだなあ)
と言って泣いたのでした。
これは仲麿が話したのを聞いて、語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
阿倍仲麻呂は、文武天皇2年(698)に阿部船守の長男として大和国で生まれ、霊亀2年(716)、遣唐留学生に選ばれて、翌年、第9次遣唐使と共に入唐する。同じ留学生に吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)がいた。
科挙に合格した仲麻呂は、玄宗皇帝に文官として仕え、李白・王維などの多くの文人と親しく交わり、文名が高かった。
真備と玄昉は天平5年(733)に来唐した第10次遣唐使と共に帰国したが、仲麻呂は官途に就いていたため、帰らなかった。しかし、藤原清河(ふじわらのきよかわ)を正使とする第12次遣唐使が天平勝宝4年(752)に来ると、在唐35年を経ていた仲麻呂は、清河たちと帰国しようとした。
百人一首にも採られている本話中の和歌は、別離の宴で詠まれたものだという。
遣唐使は出発前に海路の安全を三笠山に祈る慣習があり、この歌もそれを踏まえたものと解されている。
けれども、仲麻呂と清河の乗った船は暴風雨によって難破し、唐の友人たちには死亡したという誤報が伝わって、李白は七言絶句『哭晁卿衡』を詠んで友を悼んだ。
だが仲麻呂は、九死に一生を得て長安に戻った。とはいえ、その年、天平勝宝7年(755)に安史の乱が起こり、清河の身を案じた日本の朝廷が渤海経由で迎えを寄こしたが、唐朝は清河・仲麻呂らの帰国を認めなかった。
その後、光録大夫散騎常侍兼御史中嘗丞となり、潞州大都督の称号を贈られ、唐朝に仕えた阿倍仲麻呂は、宝亀元年(770)正月、73歳で没した。唐名、朝衡(ちょうこう)、字は仲本。承和3年(836)に正二位を贈られている。
阿倍仲麻呂と同じく、唐で客死した藤原清河は、藤原北家の祖である藤原房前の四男。(詳しくは巻22第4話の解説にて)
参議となった翌年、天平勝宝2年(750)に遣唐大使となる。
長安で玄宗皇帝に謁見した清河は、その威風堂々とした容貌と所作に感心した皇帝が、肖像画を描かせるほどであったという。また、正月の朝貢諸国の使節による朝賀に出席した際、日本の席次は西側の第二席で吐蕃(とばん・古代チベット)の次だったのだが、東側は新羅が第一席だったのに抗議し、新羅と席を交代させて日本の面目を保った。
天平勝宝5年(753)12月、帰国の途についた清河ら一行は、阿倍仲麻呂を伴っていた。そのとき、日本への渡航を望む鑑真らも乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じていたので、清河は拒否した。しかし、副使の大伴古麻呂が独断で自分の乗る第二船へ乗船させた。
結局、清河と仲麻呂の乗った第一船は暴風によって漂流し、鑑真らの乗った第二船他が日本へ帰国することが出来たのだった。
帰ることが出来なかった清河は、唐名・河清とし、唐朝に出仕することになる。
その後、遣唐使の派遣中止などもあり、宝亀8年(777)に第16次遣唐使が入唐したときには既に清河は亡くなっていた。唐の婦人との間にもうけた喜娘(きじょう)という娘を使節たちは伴い、日本へ帰国したのだった。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『全集 日本の歴史 第3巻 律令国家と万葉びと』鐘江宏之著、小学館
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