巻二十四第四十話 円融天皇の葬送の歌

巻二十四

巻24第40話 円融院御葬送夜朝光卿読和歌語

今は昔、円融法皇が崩御なさって、紫野にご葬送申し上げましたが、先年、この地に子(ね)の日の行幸があったことなど思い出して、人びとが深い悲しみに打たれているとき、閑院左大将(かんいんのさだいしょう)・朝光(あさてる)の大納言がこう詠みました。

紫の 雲のかけても 思ひきや
春のかすみに なしてみむとは

(かつて子の日の遊びにこの紫野に行幸があったが、その同じ日にここで帝を葬り奉ろうとは、いったい誰が予期したであろうか)

また、行成(ゆきなり)の大納言がこう詠みました。

をくれじと 常のみゆきに 急ぎしに 
煙にそはぬ 旅の悲しさ

(日頃の行幸には決して遅れまいと、お供申し上げていたのに、このたびの帝の冥途の旅には、悲しいことにお供のかなわぬことである)

このように詠んだのも哀れなことだ――とこう語り伝えているということです。

円融天皇陵(京都府京都市)

【原文】

巻24第40話 円融院御葬送夜朝光経読和歌語 第四十
今昔物語集 巻24第40話 円融院御葬送夜朝光経読和歌語 第四十 今昔、円融院の法皇失せ給ひて、紫野に御葬送有けるに、一とせ、此に御子の日に出させ給へりし事など思ひ出て、人々哀れに歎き悲けるに、閑院左大将朝光大納言

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

円融天皇、藤原朝光、藤原行成

『子(ね)の日の遊び』とは、正月の初子(はつね)の日に野に出て小松を引き、若菜を引いて遊び、千代を祝って宴遊びをする行事のこと。

円融天皇(えんゆうてんのう)は、村上天皇の第五皇子で、右大臣・師輔(もろすけ)の娘の中宮・安子の三番めの皇子として天徳3年(959)に誕生する。
同母兄の冷泉天皇の即位後、皇太弟を誰にするかをめぐって藤原氏と左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が対立。康和4年(967)、9歳にして立太子したのち、安和2年(969)に『安和の変』が起こり、源高明が失脚し、冷泉天皇が譲位したため、安和2年8月に即位した。
即位のときは大伯父の太政大臣・実頼(さねより)が摂政に就任。天禄元年(970)に実頼が死去すると外舅・伊尹(これまさ)が摂政を引き継いだ。しかし、伊尹は在職1年あまりで病死し、その後、実頼の弟の兼通(かねみち)と兼家(かねいえ)の間で、関白の職をめぐって熾烈な争いが始まる。そこで天皇は亡き母・安子の遺訓に従って兼通を関白に任じた。
けれども兼通は貞元2年(977)に病没し、その直前に弟・兼家を左遷するが、兼家は兄・兼通が没した翌年、右大臣となる。円融天皇はこの兼家とそりが合わず、息子の懐仁親王の立太子を条件に兄の冷泉天皇の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位する。
在位期間は、安和2年(969)8月から永観2年(984)8月。
上皇になってから詩歌管弦の御遊や石清水八幡宮、諸寺への行幸を行い、寛和元年(985)に紫野において盛大な「子の日の御遊」を催した。
『今昔物語集』巻28第3話「円融院の御子の日に曾禰吉忠参る語」で、歌人の曾禰好忠(そねのよしただ)が召されもしないのに、みすぼらしい狩衣姿で推参して追い出されたという話は、このときの出来事である。
正暦2年(991)2月12日に崩御、大喪儀は2月19日。

藤原朝光(ふじわらのあさてる・951-995)は、関白太政大臣・兼通の四男。父が存命中は、昇進が早く、27歳で従二位・権大納言兼左近衛大将となる。
兼通の妹で円融天皇を養育していた登子と重明親王との間に生まれた娘、つまり従姉妹と朝光は18歳のとき結婚し、第一子・姫子が生まれたが、この娘は19歳亡くなっている。『大鏡』によれば、間に四人の子に恵まれたこの妻は、容貌にすぐれ、人柄もよかったのだが、貧しく、そのため、朝光はこの妻を棄てて、裕福だが母親ほど年長の大納言・源延光の後家の許へ通うようになったという。
源延光の後家は、藤原敦忠(ふじわらのあつただ・時平の三男)の娘で、聡明な人だったらしい。朝光が通い出したころ、二十歳は年上の四十代であった。朝光の父・兼通が亡くなる前年のことである。
父と共に円融天皇を支えた朝光は、兼通が亡くなり、円融天皇も譲位したのちは昇進も停滞する。
その後、一条朝では、関白・藤原道隆(ふじわらのみちたか・中宮定子の父)を藤原済時(ふじわらのなりとき・伊尹の次男)と共に補佐した。しかし、長徳元年(995)に流行した疱瘡によって、道隆・済時たちと前後して45歳で亡くなる。
朝光は、敦忠の娘の年長の妻とは仲睦まじく、薨去したのは、その妻が所有する枇杷殿においてであった。

藤原行成(ふじわらのゆきなり・972-1028)の父は、摂政太政大臣・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の三男・義孝(よしたか)、母は醍醐天皇の孫の桃園中納言・源保光(みなもとのやすみつ)の娘。
義孝の長男として生まれたが、その同じ年に祖父・伊尹が亡くなり、2年後に父も病没したため、母方の祖父・源保光の庇護の下、育つ。
外祖父の源保光は式部大輔を務めた紀伝道の学者であり、太政官の事務の中枢である弁官、そして蔵人頭をつとめた実務にも長じた人物で、行成はその影響を強く受けた。祖父や父という後ろ盾がないため一時、昇進が遅れたが、蔵人頭となってからは、一条天皇と藤原道長の信任篤く、実務畑の左中弁・右大弁を経て参議となり、権中納言・権大納言と累進し、後代に一条朝での能吏、「寛弘(かんこう)の四納言」の1人として数えられた。
四納言とは、行成の他は、藤原斉信(ふじわらののぶただ)、公任(きんとう)、源俊賢(みなもとのとしかた)である。

「教導立志基」より『大納言行成』 井上探景筆

逸話として。
殿上で藤原実方と歌について口論となり、怒った実方に冠を奪われ、投げ捨てられたが、行成は取り乱さず、主殿司(とのもりづかさ)に冠を拾わせて事を荒立てなかった。これを見ていた一条天皇が行成の冷静な対応に感心し、蔵人頭に抜擢したという。
また、能書家として知られ、行成が『往生要集』を道長から借りた際、「原本は差し上げるので、あなたが写本したものをいただけないか」と言われた。

円融院大喪儀のとき、朝光は41歳、昇進の望めない正二位の大納言。自身が病没する4年前のことである。
行成は20歳で、正五位になったばかり。まだ大納言にまで上っておらず、不遇の時であった。

行成と書

象形・指事から発達した漢字は、紀元前の古代中国・殷(いん)の時代から用いられており、書体には、周秦の篆書(てんしょ)、漢魏の隷書(れいしょ)、漢で興った草書(そうしょ)・行書(ぎょうしょ)、六朝以後の楷書(かいしょ)がある。
六朝のうちの東晋の貴族・王羲之(おうぎし)は、楷書・行書・草書の三つの書体を芸術的に完成させ、古今第一の書家として名高い。書風は優美典雅で力強く、日本の書にも大きな影響を与えた。後世、『書聖』と呼ばれた。
また、隋代から始まった官吏登用試験の科挙(かきょ)では、儒教の経典・詩文だけでなく、書の美しさも評価の対象となったことと、紙の使用が広まったこともあり、初唐に欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)、褚遂良(ちょすいりょう)。遅れて、顔真卿(がんしんけい)という著名な能書家を輩出する。

日本に漢字が伝わったのは弥生時代だが、仏教の伝来によって、奈良時代には国家事業として写経所が設けられ、それらは六朝風・唐風の書体で書かれた。
名数を集めた本・『和漢名数』に、平安時代初期の能書家として、三筆(さんぴつ)――すなわち、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)、弘法大師・空海の名が挙がっている。その筆法は唐風の強い影響を受けていた。
やがて、万葉かなから現在の平仮名がつくられ、三筆から約100年後、漢字と仮名を調和させた和様を作ったのは、小野道風(おののみちかぜ・894-967)である。
『合類節用集』に「本朝三蹟、道風・佐理・行成」とあり、道風が開き、佐理を経て、行成によって和様書道は完成された。三蹟(さんせき)と呼ばれるのは、小野道風・藤原佐理・藤原行成である。

白氏詩巻(国宝)部分 藤原行成

小野道風の祖父は、草隷の書をよくし、野宰相と呼ばれた小野篁(おののたかむら)。天慶の乱のとき、山陽道追捕史に任じられて藤原純友を追討した小野好古は兄である。
在世中から能書家としての名声が高く、『源氏物語』の「絵合」で「絵は常則、手は道風なれば」目にまばゆく見れる、と評されている。
藤原佐理(ふじわらのすけまさ、または、さり・944-998)は、摂政関白太政大臣・藤原実頼の孫。草書の第一人者として評価が高かった。

行成は佐理の後任のような形で能書家として活躍する。
王羲之の書法を元にして、小野道風から書法を伝授された夢を見るほど私淑し、優雅・典麗で均整のとれた美しい書を産みだした。その書法は、行成が創建した寺の名から、世尊寺流(せそんじりゅう)と呼ばれ、子孫へ継承されていった。

〈『今昔物語集』参考文献〉
円融天皇:巻28「円融院の御子の日に曾禰好忠参る語第三」

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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』『大鏡』佐藤謙三校注、角川書店
『日本の歴史 第06巻 道長と宮廷社会』大津透著、講談社

 

巻二十四
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今昔物語集 現代語訳

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