巻二十四第四十一話 皇を慕う后の恋の歌

巻二十四

巻24第41話 一条院失給後上東門院読和歌語

今は昔、一条院が崩御されたのち、後一条院がまだ幼少でおわしたとき、かたわらにあった撫子の花を無心に摘み取られたのを母后・上東門院(じょうとうもんいん・藤原彰子)がご覧になって、こうお詠みになられました。

見るままに つゆぞこぼるる をくれにし
心もしらぬ なでしこの花
(父帝の亡くなられたのも知らず、無心に撫子の花を摘み取られた御子を見ると、涙がこぼれて仕方のないことだ)

これを聞く人は、皆涙を流しました。

カワラナデシコ

また、一条天皇ご在位中、皇后(藤原定子)が亡くなられましたが、そののち見ると、御座所の御帳の紐に文が結びつけられていました。
ある人がこれを見つけましたが、いかにも天皇のお目にとまれば良いといわんばかりの様子に見えましたので、ご覧にいれたところ、和歌が三首、書きつけられていました。

よもすがら 契りしことを 忘れずは
こひし涙の 夕べゆかしき
(夜もすがら契り交わしたことをお忘れにならないのでしたら、わたくしの亡きあとも定めし、わたくしを恋い慕って泣いてくださることでしょう)

知る人も 無きわかれぢに いまはとて
心細くも 急ぎたつかな
(知る人もない死出の旅に、もうそのときが来ましたので、ただ一人、心細くも旅立つことでございます)

天皇はこれをご覧になって、この上なく恋い悲しまれました。

これを聞いた世の人びとも、泣かぬ者はなかった、とこう語り伝えているということです。

藤原定子(枕草子絵詞 14世紀初頭)

【原文】

巻24第41話 一条院失給後上東門院読和歌語 第四十一
今昔物語集 巻24第41話 一条院失給後上東門院読和歌語 第四十一 今昔、一条院失させ給て後、後一条院の幼く御座ける時に、瞿麦(なでしこ)の花の有けるを、何心もましまさず取らせ給たりけるを、母后上東門院

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

『栄花物語』によると、三首の和歌のうち、残りの一首は、
けぶりとも 雲ともならぬ 身なりとも 草場のつゆを それとながめよ

一条天皇(980-1011)は円融天皇の第一皇子。
伯父・冷泉天皇の第一皇子で従兄弟にあたる花山天皇が十七歳で即位すると立太子し、花山天皇が二年後に出家すると七歳で践祚(せんそ)した。
母は、藤原兼家の娘・詮子。即位後は、兼家が摂政となる。兼家の死後は、子の道隆・道兼が摂関の地位をついだが、相次いで亡くなり、彼らの弟の道長が、甥の伊周(これちか)を退けて内覧・右大臣・氏長者となって実権を握った。
天皇は初め、道隆の娘・定子を皇后としたがのちに道長の娘・彰子が立后し、一帝二后の例をつくった。
一条天皇は才学に富み、その二十五年の治世は藤原道長が摂関家の地位を固めた時期にもあたる。『一条朝の四納言』と称される斉信・公任・俊賢・行成、また清少納言・紫式部・赤染衛門など、朝野に人材が輩出した。

一条天皇像(京都市真正極楽寺)

父帝・一条天皇が崩御したとき、敦成(あつひら)親王こと、のちの後一条天皇は四歳。
一条天皇は冷泉天皇の第二皇子・居貞(おきさだ)親王を皇太子に立てていたので、居貞親王が即位し、三条天皇となる。
兼家の娘・超子を母に持つ三条天皇は藤原道長とたびたび対立し、眼病にも悩み、道長に退位を迫られ、長子・敦明(あつあきら)親王の立太子を条件に、後一条天皇に譲位した。このとき、後一条天皇は九歳で、道長が摂政・関白となった。これは道長の息子・頼通に受け継がれていく。
のちに後一条天皇は、道長の娘・威子を中宮とした。

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

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