巻二十三第十三話 一条天皇治世における政道

巻二十三

巻23第13話 平維衡同致頼合戦蒙咎語 第十三

今は昔、一条天皇の御代に、前下野守(さきのしもつけのかみ・現在の栃木県の前国司)・平維衡(たいらのこれひら)という武人がいました。
これは陸奥守(むつのかみ・現在の東北地方の国司)・貞盛(さだもり)という武人の孫であります。
また同じころ、平致頼(たいらのむねより)という武人がいました。
互いに武道を競い合っていましたが、双方の言うことを互いに相手に悪しざまに告げ口する者たちがいて、二人は敵視し合うようになりました。

一条天皇像(真正極楽寺、京都市左京区)

両者ともに伊[勢]の国に住んでおり、致頼の方から進んで維衡を討とうとして合戦をしかけましたが、双方の子孫や一族郎等・従者たちが互いに射殺されて、おびただしい死者が出ました。
しかし勝負がつかないまま、維衡は左衛門府、致頼は右衛門府の弓場に召喚され、両者とも罪状を尋問されましたが、双方罪を認め、罰せられることになりました。
そこで罪科を決定されることになりましたが、明法博士(みょうほうはかせ・律令の法律家)は法に照らし、「先に攻撃をしかけた致頼の罪が特に重い。ただちに遠い国へ流されるべきである。受けて戦った維衡の罪は軽く、他国へ移すこと一年が至当である」と答申しました。
それにより、天皇は宣旨を下されて、致頼は隠岐国(おきのくに・現在の島根県の一部)に流され、維衡は淡路国(あわじのくに)に移されました。

隠岐 焚火の社 歌川広重『六十余州名所図会』

その後また、藤原致忠(ふじわらのむねただ)という者がいましたが、美濃国(みののくに・現在の岐阜県南部)へ下る途中で、前相模守(さきのさがみのかみ・現在の神奈川県の前国司)・橘輔政(たちばなのすけまさ)という人の子と郎等を射殺しました。
そのことにより、父・輔政が朝廷へ訴え出たところ、宣旨が下され、検非違使大夫尉(けびいしのたいふのじょう・検非違使を兼任した衛門府または兵衛府の三等官)・藤原忠親(ふじわらのただちか・源博雅の子)、並びに右衛門志(うえもんのさかん・右衛門府の四等官)・県犬養為政(あがたのいぬかいのためまさ)らをその国にさしつかわされて、事の起こりを調査糾問されました。
その結果、致忠が罪状を認め、罰せられることになり、罪科を決定されるにあたり、明法博士の答申に従って、致忠を遠く佐渡国へ流罪になさいました。

されば、昔も今も、かような罪があれば、朝廷が必ず処罰され給うのが常であります――とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻23第13話 平維衡同致頼合戦蒙咎語 第十三
今昔物語集 巻23第13話 平維衡同致頼合戦蒙咎語 第十三 今昔、前の一条院の御代に、前下野守平維衡と云ふ兵有り。此れは陸奥守貞盛と云ける兵の孫也。亦其の時に、平致頼と云ふ兵有りける。共に道を挑む間、互に悪き様に聞かする者共有りて、敵と成ぬ。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

巻二十三について

本巻は第13話から始まる。前半が伝わっている間に欠脱したものかは決め手がなく、東京大学国語研究室蔵の底本には第十五からの話番号はない。
これが原初からの形態で、『今昔物語集』が未完成、未整備だった事情を示唆していると思われる。

平安時代の裁判

古代には近代のような三権分立などはなく、律令制以来、司法は行政と一体で、すべての官司に裁判権があった。

古代の刑法・律には、死・流(る)・徒(ず)・杖(じょう)・笞(ち)の五罪、二十等が定められている。
律令の裁判制度は、この罪の等級に応じて判決を下すことのできる官司が異なった。
事件が起きたところの官司がまず裁判を管轄する。

地方なら、所管の郡司が最低の笞罪(細い鞭で打つ。10回から50回)ならば判決して刑を執行する。
杖罪(鞭打ち60回から100回の5等級ある)以上にあたれば、国司に送る。国司は徒罪(1年から3年までの半年ごとの5等級ある懲役刑)と杖罪までは執行できた。
京にある官司は笞罪と杖罪は判決・執行できるが、徒罪以上にあたると行部省に送り、そこで徒罪のみは判決・執行できた。

国司・行部省ともに、流刑以上または除免官当――官人から位階・官職を剥奪する刑。三位以上は刑法上、特別な優遇を受け、五位以上は、流罪以下について、罪一等を減じた上で位を奪うことで贖罪とするので、実刑は執行されない――という位持ちの官人に適用される刑にあたると判断した場合、太政官に申上しなければならない。
太政官は再審査し、行部省に審議させ、その結果を太政官は論奏という文書で天皇に奏上し、天皇の裁可をへて、死罪・流刑が確定し、執行された。

太政官の管轄は、五位以上を有する官人、大寺社の関係者、侍臣などが対象で、それ以外を検非違使庁が扱った。
太政官裁判の中心は、罪名定と呼ばれる陣定(じんのさだめ)で、公卿による陣定を開催して、天皇に裁可を仰いだ。

本話は一条天皇の治下で発生した二つの争乱事件、平致頼と平維衡の私闘と藤原致忠の橘某殺害事件の顛末を記し、政道の厳正を説いた話。

一条天皇は円融天皇の第一皇子で、母は藤原兼家の娘・詮子。その在位期間は藤原道長が摂関家の地位を固めた時期にあたる。
英邁な帝で、皇后・定子、中宮・彰子の二后をもち、その治世には朝野に人材が輩出して、後世の公家たちが理想とした時代の天皇である。

平致頼と平維衡の私闘は、長徳4年(998)。藤原致忠の件は、長保元年(999)の出来事であるが、並行して審理され、長保元年12月27日、同時に処分が議定された。

平致頼と平維衡の私闘

長徳4年(998)、伊勢国において、前下野守・平維衡と散位・平致頼との闘乱が起きる。
12月14日に道長が頭弁・行成に奏上させ、「五位以上は畿内から出てはならぬ定めなのに、維衡と致頼は数多の部類を率いて伊勢国神郡において(中略)人民の愁いを致す」ということで両名を召喚させることを決め、26日に国司を召して宣旨を下し、29日に伊勢国司が再度調査して上申した。
翌・長保元年に両名を召し上げて検非違使庁で訊問が行われ、維衡のみが過状(かじょう・罪を認める状)を提出するが、戦が優位にあった致頼はそれを拒んだ。
3月26日に明法博士を召して罪名を勘申させ、5月5日に左大臣・道長以下9人の公卿によって陣定が開かれ、罪を定めた。7月22日にも陣定が開かれ、12月15日の陣定において、両名は死罪と決まったが、12月27日の一条天皇の意向によって、両名は遠流、ただし維衡は位階を奪わない移郷と決定した。
1年にわたって4回の陣定が行われた結果、平維衡は淡路国へ移郷、平致頼は位階を剥奪の上、隠岐国へ配流となった。

平維衡は、平将門を討ち取った平貞盛の四男。常陸を本拠地とし、陸海の要地である伊勢国に第二の本拠を築こうとして、先に伊勢にいた、又従兄弟の致頼と争った。
合戦の罰として淡路国に移されたが、すぐに召喚される。
その後、伊勢守(手違いのため、二か月のみの任官)・上野守・備前守・常陸介を歴任し、極官は従四位上。85歳で亡くなっている。

平致頼は、貞盛の従兄弟である公雅の三男。備中丞、右衛門尉、従五位下。維衡と合戦したときは、位階のみあって無官。平五大夫と称する。
隠岐国に流された3年後の長保3年(1001)、赦免され、五位に復された。寛弘8年(1011)に死去。
姉妹には、道長の兄・道隆の家司・有道惟広の妻と、のちに乱を起こす平忠常の正室になった女性がいる。

維衡、致頼ともに、大江匡房の伝記本『続本朝往生伝』の中で、一条朝の代表的な武士として、源満仲・源満正・源頼光と一緒に「天下の一物」として名が挙がっている。

また、致頼については、『宇治拾遺物語』に、このような話がある。(巻第十一第十一話)

〝丹波守保昌が任国に下った時、与佐の山で白髪の武士一騎と会った。
道の傍らの木の下に入って、馬を立てていたが、保昌の郎等たちが、「この翁はどうして馬から降りぬのか。けしからん。責めただして降ろせ」と言った。
このとき保昌が、「一騎当千の勇者の馬の立て方である。ただびとではないぞ。責めだてしてはならぬ」と、押さえて通り過ぎるうちに、三町ほど行って、大矢の左衛門尉致経が大勢の軍兵を連れて来るのに出会った。
保昌が挨拶すると、致経が、「そこで老人一人にお会いになったでしょう。致経の父の平五大夫です。まるっきりの田舎者で、わけがわかりません。さぞかし無礼をいたしたことでしょう」と言うのであった。
致経が通り過ぎてのち、保昌は、「やはりそうか」と言ったとかである。〟

丹波守・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は歌人としても武人としても名高い。
平致頼も勇猛な武士として名が知られ、勇者は勇者を知る、という話。

藤原致忠の殺人事件

藤原致忠が、橘輔政の子・惟頼とその郎等を殺した際の事情や状況など、詳しいことは伝わっていない。けれども、輔政の訴えにより、取り調べを受けた致忠が罪を認めたので、致忠は佐渡国へ流された。

致忠は、大納言・元方の子。従四位下、右京大夫。
兄弟に、強欲な受領として有名な藤原陳忠。姉妹に、村上天皇の第一皇子を産んだ更衣の祐姫がいる。
致忠の子には、武人で藤原道長の家司・藤原保昌、盗賊の保輔、清和源氏の源満仲の妻となり、頼信を産んだ女子がいる。

被害者の父・橘輔政は、宇多天皇の即位の際、起草した勅答が「阿衡の紛議」の原因となった学者で参議の橘広相のひ孫。相模介、山城守、越中の守、また藤原実資の家司を務める。極官は、従四位下。
清少納言の最初の夫・橘則光の叔父にあたる。
さらに、輔政のもう一人の息子で従五位下・能登守の惟通の子、つまり輔政の孫・好則は従五位下の位を持ちながら陸奥国に土着していたようで、巻25第5話に登場する「大君」とは、好則のことである。


〈『今昔物語集』関連説話〉
平貞盛:巻29「平貞盛の朝臣法師の家に於いて盗人を射取る語第五」、巻29「丹波守平貞盛児干を取る語第二十五」
平致頼の子・致経:巻23「左衛門尉平致経明尊僧正を送る語第十四」
藤原陳忠:巻28「信濃守藤原陳忠御坂に落ち入る語第三十八」
藤原保昌:巻25「藤原保昌の朝臣盗人の袴垂に値ふ語第七」
橘則光:巻23「陸奥の前司橘則光人を切り殺す語第十五」
橘輔政の孫・好則:巻25「平維茂藤原諸任を罰つ語第五」

巻二十九第五話 平貞盛、盗賊を追い払う
巻29第5話 平貞盛朝臣於法師家射取盗人語 第五今は昔、下京(左京の五条・六条)のあたりに、いくらか財産のある法師がいました。家は豊かで、何不自由なく暮らしていましたが、その家に不思議なお告げがありました。そこで、賀茂忠行(かものただ...
巻二十九第二十五話 平貞盛、胎児の肝を採る
巻29第25話 丹波守平貞盛取児干語 第廿五丹波守(たんばのかみ・現在の京都府中部と兵庫県北東部の国司)に在任中、任国で悪性の瘡(かさ・皮膚疾患)をわずらい、□□という名医を京から迎えて診察させたところ、医師(くすし)は、「命に係わるよ...


【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
小学館 日本古典文学全集28『宇治拾遺物語』
日本の歴史 第06巻『道長と宮廷社会』大津透著、講談社

 

巻二十三
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