巻二十三第十六話 橘季通の逃走

巻二十三(全)

巻23第16話 駿河前司橘季通構逃語 第(十六)

今は昔、駿河前司(するがのぜんじ・現在の静岡県中央部の前の国司)橘季通(たちばなのすえみち)という人がいました。
この人が若いとき、自分の仕えている家ではない、さる高貴な家の女房と深い仲になり、人知れず通っていました。
そこで、その家の侍たちの六位になりたての若い連中などが集まって、「この屋敷の人間でもない者が、朝晩、我が物顔で屋敷に出入りするとは、けしからん。どうだ、皆で取り囲んで、やっつけてやろう」と寄り集まって相談しました。
季通は、そんなこととも知らず、いつものように小舎人童(こどねりわらわ)一人だけ連れて、歩いて出掛け、そっと女の部屋へ忍び込みました。
童には、「夜明けごろ迎えに来い」と言って、家に帰しました。

一方、やっつけてやろうとする連中は、様子をうかがっていましたが、「そら、例のやつがやってきて、女の部屋へ入ったぞ」と互いに耳打ちして、あちこちの門にみな錠を掛けました。
鍵は隠しておき、侍たちは皆、棒を手にして土塀の崩れた所に立ちはだかり、逃げ出せないよう見張っていました。
この様子を見て、召使の女童(めわらわ)が主人の女房に告げたので、女房も驚いて季通に告げます。
季通は寝ていましたが、これを聞き、起き上がって衣装をつけ、困ったことになったぞと思いながら、坐っていました。
女房は、「どういうことか、主人の所へ行って様子を探ってきましょう」と言い、行って尋ねてみると、「侍たちが示し合わせてしたことだが、この家の主人は知って知らぬふりをしている」と聞いてきて、女房はどうしてよいかわからず、部屋へ帰って来て、泣いていました。
「えらいことになったものだ。恥をかかせられるに違いない」と思いましたが、逃げることもできず、女房の女童をやって「屋敷を脱け出る隙でもないか」と探らせましたが、そういう場所には侍たちが四、五人ずつ、袴の裾を高くくくり上げ、股立ち(ももだち・袴の左右側面の開いている部分)をとって帯にはさんで太刀を持ち、棒を突っ張って立ち並んでいました。
女童は部屋へ帰って来て、この様子を報せたので、季通はこの上なく困惑しました。

この季通は、もともと思慮深く腕力なども非常に強い男でありましたが、ここで覚悟を決めました。
「こうなっては、どうしようもない。これも何かの定めなのだ。ともかく、逢瀬のとき普通なら夜明け前に出て行くところ、夜が明けても、このまま部屋にじっとしていて、引っ張り出しに来る者があったら、それと刺し違えて死んでやろう。とはいえ、夜が明けたあとでは、このおれだということが分かり、そうとなったら、さほどたやすくは手出しもしかねるだろう。そうなったときに、従者を呼びにやって一緒に出て行くことにしよう」と、考えました。
「だが待てよ。あの小舎人童が何も知らず、夜明けにやってきて門を叩くと、あの連中が、『おれの従者の小舎人童だ』と知って、捕えて縛るかもしれない」と思いつくと、それがかわいそうに思われました。
そこで、女童に「来たかどうか」の様子を見させにやったところ、侍たちが口汚くののしったので、泣く泣く帰って来て、うずくまってしまいました。

そのうちに、夜明け近くになりました。
すると、この童はどうして入ったのか、庭に入ってきたのを侍たちが見つけ、「そこの子供、お前はだれだ」と咎めます。
季通はこれを聞き、「まずい返事をするに違いない」と思っていると、童は、「御読経の僧のお供の童子です」と名乗ったようでした。
「それならよし」と言って通らせました。
「あいつ、うまく答えたな。だが、この部屋に来て、いつも呼び出す侍女の名を呼ぶに違いない」と、それをまた心配していると、部屋にも寄らずに通り過ぎていきました。
季通は、「さてはこの童、事情を飲み込んだな。そう気がついたとすれば、あいつはなかなかの奴だから、こんな有様でも何かうまい策を用いるかも知れない」と、童の心がわかっているので、こう思いながら待っていました。
すると大路の方で女童の悲鳴が聞こえ、「追いはぎが出た。人殺し」と叫んでいます。
その声を聞くや、見張りに立っていた侍たちは、「それ、捕まえろ」「あんなのはわけないぞ」と口々に言って、全員そろって駆け出し、門を開ける暇もなく、土塀の崩れた所から走り出て、「どっちへ行った」など言って、大騒ぎして捜し回ります。
このとき季通は、「これはあの童がたくらんだことだ」と気がついて部屋から走り出ました。
侍たちは門には錠が掛けてあるので、ここは心配ないと思い、土塀の崩れた所に何人か残って、あれこれ言い合っていたその隙に、季通は門のそばに走り寄り、錠を[ねじっ]て引っ張り、引き抜きました。

門が開くや否や、まっしぐらに走り、町角を走り曲り走り曲りして逃げているうち、童が走り着いて来たので、二人一緒に一、二町(約100から200メートル強)ほども走って逃げのびました。
そこから普通に歩きながら、季通が童に、「どんな具合にしたのだ」と訊くと、童は、「どこのご門も普段と違い、錠が掛けられていました上に、土塀の崩れの所に侍たちが立ちはだかって、厳しく尋問しますので怪しく思い、そこで、『御読経の僧のお供の童子です』と名乗りますと、中に入れてくれましたので、あなた様にわたしの声を聞いていただいたあとで、また外に出て行き、ちょうどこのお屋敷に仕える女童が大路にしゃがんで大便をしていましたので、その髪の毛を引っつかんで打ち倒し、着物を剥ぎ取りましたところ、大声で叫びましたが、その声で侍たちが飛び出して来ましたから、『もはや、何が何でもお屋敷からお出になれたであろう』と思いまして、女童は放り出して、こちらの方に走って来て追いついたのでございます」と言いました。
そこで童を連れて家に帰りました。

子供に過ぎない者でありながら、このように賢い奴は、めったにいるものではありません。

この季通は、陸奥前司(むつのぜんじ・現在の東北地方の前の国司)則光朝臣(のりみつのあそん)の子であります。
この男も豪胆で力が強いので、このように難を逃れることができたのである、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻23第16話 駿河前司橘季通構逃語 第(十六)
今昔物語集 巻23第16話 駿河前司橘季通構逃語 第(十六) 今昔、駿河前司橘季通と云ふ人有き。其の人若かりける時、参仕まつる所にも非ず、止事無き所に有ける女房を語らひて、忍て通けるを、忍て通けるを、其の所に有ける侍共・生「云々

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

前話に父・橘則光の剛勇をしるしたあとを受け、子の季通の剛勇譚を置いたもの。小舎人童の機転が光っているが、それを生かした季通の沈着な行動と胆力によって、季通の武に優れた一面がよく分かる話である。

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橘季通は、則光を父、橘行平の娘で歌人の母との間に生まれた。式部大丞、蔵人、中宮少進、駿河守、内蔵権助などを歴任し、最終官位は従五位上。

同母の兄弟に、歌人で法師の光朝がいる。

異母兄弟には、清少納言を母とする則長(のりなが)がおり、則長は六位蔵人、越中守などを務め、官位は従五位下で終わっている。則長は歌人の能因法師の姉妹を妻としたことから、母の著作『枕草子』の写本系統の能因本はこの関係からの伝来と言われている。
他に生母不明の好任という兄弟がいる。

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

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