巻二十三第二十五話 最強の相撲人、成村と常世の大一番

巻二十三(全)

巻23第25話 相撲人成村常世勝負語 第(廿五)

今は昔、円融天皇の御代、永観二年(948)という年の七月□□日に、堀河院で相撲の節会が行われました。

さて、選抜試合の当日、左の最手(ほて・最上位)である真髪成村(まかみのなりむら)と右の最手である海恒世(あまのつねよ)が呼び出されて取り組むことになりました。
成村は常陸国(ひたちのくに・茨城県北東部)の相撲人であります。
村上天皇の御時以来、相撲を取り続けて最手にまでなった者です。
体格も力も、並ぶ者がありませんでした。
恒世は、丹後国(たんごのくに・京都府北部)の相撲人であります。
これも村上天皇の御代の末の頃から出て来て取り続け、最手になった者です。
体格は、成村より少し劣っていましたが、相撲の取り口はじつに上手でありました。
今日、取り組まされたなら、二人とも長い間、互いに好敵手をもって任じている者同士でありますから、この勝負の行方は、両者いずれにとっても非常に気の毒な結果をもたらすに違いありません。
まして成村は、恒世よりは相撲歴の長い者だから、もし負けたなら、本当に気の毒なことでありましょう。

さて取り組む段になって、成村は六度まで免除を申し出ました。(注・現在の「待った」ではなく、認められれば、試合は中止になる。認めるのは、天皇)
恒世も免除こそ申し出ませんが、「成村は俺よりずっと先輩だから、すぐに取り組むのも気の毒なことだ」と思い、しいて勝負したいとも思わず、また、相手も非常に力が強いから取り組んでも、そう簡単には勝てそうにありません。
そこで、成村が六度まで免除を申し出てわきに離れるたびごとに、恒世は放してやりました。
七度目になり、成村は泣きながらまた免除を申し出ましたが、許されません。
成村は怒気を含んで立ち上がるや、がむしゃらに寄って行き、組み合いました。
恒世は片手を成村の首に回し、もう一方の片手で脇をさしにいきました。
成村は前袋(前褌・まえみつ)を引き、横みつを取って、恒世の胸に、胸を押しつけ、しゃにむに引きつけるので、恒世は小声で、
「気が狂われたか。いったい、どうなさるおつもりか」
と言いましたが、成村は耳をも貸さず、強く引きつけ、外掛けをかけようとします。
それを待って、逆に内掛けにからみ、のしかかるように体をあずけて浴びせ倒すと、成村はあおむけになって倒れ、その上に折り重なるように、恒世が横ざまに倒れかかりました。

そのとき、これを見ていた上・中・下のすべての人は色を失いました。
相撲に勝った方は、負けた方に対して、手を叩いて笑うというのが恒例になっています。
ところが、この勝負は重大事と思われていたからでしょうか、声も立てず、ひそひそと言い合いました。
続いて、次の取り組みが始まるはずでしたが、この勝負の判定について、物言いがつき、盛んにもめているうち、いつか日が暮れてしまいました。

成村は起き上がって相撲人の控え所に駆け込むやいなや、狩衣の袴をつけて、すぐさま出て行きました。
そして直ちに、その日のうちに常陸国へ帰って行きました。

装束着用之図(国立国会図書館)より「狩衣」(公家の普段着)

恒世は、成村が起き上がっても、ついに起き上がれず倒れたままでいるので、右方の相撲の世話役たちが大勢そばに寄って助け起こし、弓場殿(ゆばどの)の方に連れて行き、そこで見ていた殿上人を外に出し、その席に寝かせました。
そのとき、右方の大将である大納言・藤原清時(ふじわらのきよとき)が紫宸殿(ししんでん)の階下の座から降り、下襲(したがさね)を脱いで、褒美に与えました。
中・少将たちはそばに寄り、恒世に、
「成村は、どうだったか」
と尋ねると、ただ、
「よい最手」
とだけ答えました。
それから世話役たちに助け起こされ、皆でこの人事不省の者を押し立たせて、控え所の方に連れて行くと、中・少将たちは着ている物をある限り脱いで褒美として与えました。
しかし恒世は、その着物さえ、きちんと[着ることが出来ませんでした。]
その後、播磨国(はりまのくに・兵庫県南西部)で死にました。
胸の骨を押し折られて死んだのだと、ほかの相撲人たちは話し合いました。

京都御所の紫宸殿

成村はその後、十余年生きていましたが、
「恥をかいた」
と言って、京に上ることもしませんでしたが、やがて敵(かたき)に討たれて死にました。
その成村というのは、現在の最手、為成(ためなり)の父であります。

左方右方の最手同士が勝負するのは、特に珍しいことではなく、通常のことであります。
ところが、天皇がその年の八月に退位なさったので、
「左右の最手が勝負するのは、不吉なことだ」
と言い出す者があって、それ以後は勝負することがなくなりました。
これは、事の真相を知らないのであり、退位されることは、この勝負にはまったくかかわりがないことであります。
また、正月十四日の踏歌(とうか・集団が足を踏み鳴らして歌い舞う宮中行事で、正月十四日が男踏歌、十六日が女踏歌の節会)も昔から年中行事として行われているのを、大后(おおきさき・醍醐天皇后、藤原穏子)が正月四日に亡くなられたので、十四日は御忌日に当たるゆえをもって、行われなくなりましたが、おかしなことに人はこれを勘違いして、
「踏歌は、后の御為に不吉なことだ」
と言い出し、現在では行われていません。
これもまったく、合点のいかぬことであります。

それでもやはり、成村と恒世は勝負するべきことではなかったと、世間の人は非難申した、とこう語り伝えているということです。

勧進大相撲興行之図(日本相撲協会)

【原文】

巻23第25話 相撲人成村常世勝負語 第(廿五)
今昔物語集 巻23第25話 相撲人成村常世勝負語 第(廿五) 今昔、円融院天皇の御代に、永観二年と云ふ年の七月□日、堀川院にして相撲の節有ける。 而るに、抜手の日、左の最手真髪の成村、右の最手海の常世、此れを召し合はせらる。成村は常陸国の相撲也。村上の御時より取上て手に立たる也。大きさ、力、敢て並ぶ者無し。恒世は...

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【解説】 柳瀬照美

真髪成村は、村上朝から円融朝にかけて活躍した左の最手(ほて)。陸奥、もしくは常陸国の出身と伝えられる。
海恒世は丹後の出身で、村上天皇治世の末より召されて、右の最手となった。

史実にかなり忠実な伝承らしい。
不吉な取り組みとして、以後、最手同士の対決が禁じられたというほどであったから、この取り組みは当時の人びとの記憶に長く残ったものと思われる。

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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

【協力】ゆかり・草野真一

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