巻二十九第五話 平貞盛、盗賊を追い払う

巻二十九

巻29第5話 平貞盛朝臣於法師家射取盗人語 第五

今は昔、下京(左京の五条・六条)のあたりに、いくらか財産のある法師がいました。

家は豊かで、何不自由なく暮らしていましたが、その家に不思議なお告げがありました。
そこで、賀茂忠行(かものただゆき・安倍清明の師)という陰陽師のところに、そのお告げの吉凶を尋ねにやったところ、「某月某日、堅く物忌みをしなさい。そうしないと、盗人に襲われて命を失うかもしれません」と占ったので、法師はすっかり縮み上がってしまい、その日になれば、門を閉じて人も入れず、厳重に物忌みをしていましたが、この物忌みの日が何度か重なったのち、その物忌みの日にあたるある夕暮れ方、門を叩く者があります。

巻二十四第十五話 賀茂忠行、息子・保憲の才を知る
巻24第15話 賀茂忠行道伝子保憲語 今は昔、賀茂忠行(かものただゆき)という陰陽師(おんみょうじ)がいました。 その道については昔の名陰陽師にも恥じず、当時においても肩を並べる者がいませんでした。 そこで、公私にわたって重く用いられ...

恐ろしくて返事もしないでいると、盛んに叩くので、人を出して、「どなた様でいらっしゃいますか。今は堅い物忌みの最中です」と言わせたところ、「平貞盛がたった今、陸奥国から上京いたしました」と言います。

平貞盛

この貞盛はここの法師と昔から非常に近しい知り合いで、きわめて親しく付き合っている間柄なので、重ねて取り次ぎの者に、「ただ今、陸奥国から到着いたしたが、夜にはなったし、故あって『今夜は家へは帰るまい』と思っているのだが、さて、どこへ行ったらよいものか。それにしても、いったいどういう物忌みか」と言い入れさせました。
すると中から、「『盗人に襲われて命を失うであろう』との占いがあったので、堅く物忌みをしているのです」と言わせます。
そこで貞盛がまた、「それなら、なおのこと、わざとでも貞盛を呼び入れておらせるべきだ。なんで貞盛を帰すことがあろうか」と言い入れさせます。

これを聞いて法師は、「なるほど」と思ったのか、「では、殿だけお入りください。ご家来衆やお供の者たちはお返しください。なんといっても、堅い物忌みですから」と言わせました。
貞盛は、「承知つかまつった」と言い、自分だけ入って、馬や家来たちを皆、帰してしまいました。
そして法師には、「堅い物忌みにおわすので、出て来られてはなりませぬぞ。わしは今夜だけ、この放出(はなちいで・寝殿造りの廂の間の一部)の間(ま)におらせてもらおう。今日は家に帰ってはならぬ日だからな。そして翌朝、お目にかかろう」と言い、放出の間に座を占め、食事などして寝たのでした。

さて、夜半も過ぎたと思われるころ、門を押す音がしました。
貞盛は、「これは盗人だろうか」と思い、弓矢をかき負い、車宿(くるまやどり・総門近くにある牛車を納める屋舎)のほうへ行って身を潜めました。
案の定、盗人であったので、太刀で門を開けると、ばらばらと走り込んで来て、南面のほうへ回ったため、貞盛はその盗人の中へ紛れ込み、物の置いてあるほうには行かせず、何もないほうを差して、「ここに物がありそうだ。ここを蹴破って、入れ」と指図しました。

盗人は貞盛が言うとは露知らず、松明の火を吹きたて、まさに踏み込もうとします。
そのとき、貞盛は、はっと気づき、「この盗人が中へ入ろうものなら、不意のことに、法師も殺されるかもしれぬ。中へ入らぬうちに射殺そう」と思いましたが、弓矢を負うた盗人の奴がそばに立っているので、危険な気がしました。しかし、「そうかといって、このままにはしておけない」と思って、そやつの背後から征矢(そや・戦場で用いる矢)でもって背中から胸先まで射通しました。

こうしておいて、貞盛は、「後ろから射る者があるぞ」と叫び、この射倒された奴に「逃げろ」と言うなり、そいつを家の奥へ引きずり込みました。
それを見て他の奴が、「だれか射たのだ。かまうな。どんどん踏み込め」と気負って下知する奴を、貞盛はまたわきに走り寄るや、ど真ん中にさし当てて射通しました。
そうしてまた、「射る奴があるぞ。もう逃げろ、ものども」と言いながら、そいつも奥へ引き入れると、二人とも奥のほうに倒れ伏しました。

そのあと、貞盛は奥のほうから鏑矢(かぶらや・音の鳴る矢)を続けざまに射かけたので、残りの盗賊どもは先を争って門のほうへ逃げ出し、その背中を追いつめざま、びしびしと射てゆくと、たちどころに門前に三人が倒れました。

鏑矢

もともと十人ほどの盗賊だったので、残りの奴らは仲間のことなど見向きもせず、走って逃げ出しました。
そこで、そのうちの四人は即座に射殺し、あとの一人は四、五町(約四百から六百メートル)ほど逃げたところで腰を射られ、逃げおおせずに、あたりの溝の中に倒れ込んでいました。
夜が明けてから、そいつを詰問し、その自白によって、ほかの奴らを捕縛しました。

されば、幸運にも貞盛朝臣(さだもりのあそん)が来合せて、命拾いした法師ではあります。

「もし、あまりに堅く物忌みをして貞盛を家に入れなかったら、法師はきっと殺されただろう」と人々は言い合いました――とこう語り伝えているということです。

巻二十七第二十三話 播磨国の鬼が、人家に来て射られた話
巻27第23話 播磨国鬼来人家被射語 第廿三今は昔、播磨国(兵庫県姫路市)の□□郡に住んでいる人が死んだので、その後に死穢を祓おうとして、陰陽師を呼んで家にしばらく居てもらったが、その陰陽師が言うには、「こんど、某日に、この家に鬼が来る...

【原文】

巻29第5話 平貞盛朝臣於法師家射取盗人語 第五
今昔物語集 巻29第5話 平貞盛朝臣於法師家射取盗人語 第五 今昔、下辺に、生(なま)徳有る法師有けり。 家豊にして、万づ楽しくて過ける程に、其の家に怪(さとし)をしたりければ、賀茂の忠行と云ふ陰陽師に、其の怪の吉凶を問ひに遣たりけるに、「某月某日、物忌を固くせよ。盗人事に依て、命を亡さむ物ぞ」と占なひたりければ...

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

平貞盛について

高名な陰陽師・賀茂忠行から盗賊による死を予言されていた法師が、たまたま上京した知人の貞盛を物忌み中であったが、迎えて宿泊させたことによって、難を逃れた話。
ただ一人で盗賊らをかく乱し、射殺または撃破した平貞盛の機略縦横の働きは、優れた武人としての彼の姿を伝える。

平貞盛は、承平5年(935)に左馬允(さまのじょう・馬寮の三等官)として在京中、従兄弟の将門と実父のもう一人の妻の父親・源護らとの抗争に父の国香が巻き込まれ、亡くなったことを知る。
朝廷に休暇を申請して帰国した貞盛は父の遺体を埋葬し、逃げ隠れていた母と妻を捜し出した。けれども貞盛は、将門に非はないとして復讐することはせず、父の遺領の保全の約束を将門に取りつけて和睦した。
父・国香の死後まもなく、貞盛はその後継として常陸大掾(ひたちのだいじょう・常陸国の三等官)に任名されている。
その貞盛の態度が変わったのは、将門との抗争に介入した父方の叔父・良兼と良正らの説得による。叔父たちと共に将門と戦うが、負け続け、その間、叔父の良兼も病没してしまう。
将門に追われた貞盛は山野に隠れるが、将門が兵を各地へ返したのを知り、母方の叔父の藤原秀郷と結んで将門勢を破り、下総猿島で討ち取った。
この功により、従五位上となり、右馬助に任じられた。鎮守府将軍、陸奥守、丹波守を歴任。従四位下が極官となる。
常平太、平将軍とも別称される。

平氏について

『平氏』というと、多くの人は『平家物語』の平清盛を思い浮かべるだろう。
清盛の先祖は、伊勢国に本拠を築いた維衡。貞盛の四男である。

よく「源平藤橘」というけれど、これは古代の代表的な『氏』で、平安時代に天皇に近い子孫や外戚として勢力を持ったことなどから、後世作られた系図の多くが先祖をこの四氏に結び付ける風潮ができた。
このうち、源氏と平氏は臣籍降下した皇族の子孫である。

子・孫に平姓を与えて臣下とした天皇は四人おり、その名から、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光考平氏がある。
しかし、仁明平氏・文徳平氏・光考平氏は数代で絶えてしまっている。
つまり、『平氏』といえば、桓武平氏のことになる。

桓武天皇は、17人の子孫に平姓を与え、その中で第三皇子・葛原(かずらはら)親王の長男と三男の子孫が栄えた。

在京した長男・高棟(たかむね)王の子孫として、平清盛の正室・平時子(二位尼)、弟の平時忠、異母妹の建春門院平滋子がいる。
そして葛原親王の三男・高見(たかみ)王の子、高望王の子孫が源平合戦を闘った系統である。

つまり、平清盛・時子夫妻は、ともに桓武平氏であり、夫は葛原親王の三男、妻は長男の子孫であった。
清盛夫妻を見ると、平氏は一族間で和合していたように思われるかもしれないが、そうでもなく、坂東の地に土着した高見王の子孫たちの間では内紛が絶えなかった。

葛原親王の孫で高見王の子・高望王あらため、平高望(たいらのたかもち)には多くの息子がいた。
長男・国香(くにか)、次男・良兼(よしかね)、三男・良将(よしもち・良持)、四男・良広(よしひろ)、五男・良文(よしふみ)、六男・良茂(よししげ)、そして末子の良正(よしまさ)。
このうち、四男の良広は妻・紀氏の関係で、応天門の変に連座して土佐に流されている。
正室の子である国香・良兼・良将が押領使となった父・高望に従って坂東に入ったのに対し、母親が違う良文は在京し、延長元年(923)に醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受けて東国へ下り、盗賊を滅ぼしたと伝えられる。
その後、武蔵国熊谷郷村岡、相模国鎌倉郡村岡に移り、「村岡五郎」と称した。また下総にも所領があった。

(余談ながら、良文の後裔の一族に東郷氏があり、薩摩東郷氏から、日露戦争のとき海軍を率いた東郷平八郎が出ている)

東郷平八郎

鎮守府将軍を務めた三男の良将が亡くなり、京で摂政・忠平を私君として官途に就こうとしていた子の将門(まさかど)は父の遺領を継ぐために下総国猿島郡に戻るが、そこで父・良将の遺領を横取りしようとする伯父・国香たちと対立することになる。
また、将門は伯父・良兼の娘を妻としたが、良兼は婿としての将門を嫌っており、将門の館にいた娘と孫を強引に自らの上総の屋敷へ連れ戻した。
このとき、良兼の息子たち、公雅(きみまさ)と公連(きみつら)の兄弟は、姉とその子を将門の許に逃がしたという。
叔父の良正も将門を憎み、合戦をしかけている。
この叔父たちの内で、良文の態度は違った。時期は分からないが、将門の次女を息子・忠頼(ただより)の正室に迎えている。

坂東における平氏一族間の内紛、武蔵国司の内部対立、常陸の国司と住人・藤原玄明の対立が複合的にからみあい、天慶2年(939)12月、玄明を支援した将門が常陸守を破り、国衙を占拠、坂東諸国を次々と占領したため、朝廷は反乱と断定した。
天慶3年(940)2月、藤原秀郷と国香の息子で従兄弟の平貞盛に将門は討たれ、乱は終結する。

平将門(築土神社、東京都千代田区)

これによって、桓武平氏の主流は貞盛とその子孫となった。

貞盛は甥やその子、また自分の孫までを養子として一族の結束を強めようとした。
貞盛が養子としたのは自らの孫と異母弟・繁盛の子孫。実子の維叙・維将・維敏・維衡の他に、「維」の字をつけて養子にし、名が分かっている者については、次男・維将の子・維時、弟・繁盛の子・維茂、維幹、繁盛の孫・維良。

貞盛の実子の内、長男の維叙(これのぶ)は右衛門少尉から従五位下。肥前守、陸奥守。常陸・上野守にもなり、通貴の従四位下にまで上った。藤原実資のちに藤原道長に仕えた。藤原北家の済時の実子だという説もある。
維将(これまさ)は相模介、肥後守。妻は紫式部の父方の伯母と言われ、北条氏の遠祖に当たる。子は維時。孫は平忠常の乱のとき、追討使となった直方である。
維敏(これとし)は藤原実資に仕え、衛門尉を経て肥前守となるが、その地で没した。
維衡(これひら)は下野守・伊勢守・上野介・常陸介を務め、従四位上。常陸だけでなく、伊勢国にも地盤を築き、伊勢平氏の祖となる。

養子の内、維茂(これしげ)は15番目の養子であるから余五と称し、陸奥国で藤原秀郷の孫・諸任と戦った。
維幹(これもと)は維茂の弟。巻25第9話で平忠常の乱のとき、源頼信の許へ馳せ参じた「惟基(これもと)」と同じ人物と言われる。実父・繁盛が常陸において京にいる兄の貞盛を支援したその後を継ぎ、常陸大掾。従五位下。平大夫と称する。常陸国筑波郡水守郷多気邑に住んだことから、水漏大夫、多気大夫とも呼ばれた。当時、東国で行われていた略奪婚をした人物でもある。(『宇治拾遺物語』巻第3第9話「伯の母の事」)
維時(これとき)は祖父・貞盛の養子となり、検非違使・左衛門尉のとき、藤原伊周が大宰府に流された際の領送使を務めた。常陸介・上総介を歴任。検非違使に追われた維幹の子・為幹を密かにかくまったこともある。
維良(これよし・?-1022)の父は、繁盛の息子の兼忠。(ただし、『尊卑分脈』には記載されていない)長保3年(1003)に下総国府を焼き討ちして官物を略奪。押領使の藤原惟風の追捕を受け、越後国に逃亡した。のち、鎮守府将軍になり、藤原道長に馬・砂金・絹を献上して庇護を仰ぎ、鎮守府将軍に再任された。

この中で、平氏の嫡流と認められたのは、貞盛の次男・維将の子孫。維時の子・直方(なおかた)である。
平忠常の乱の際、追討使・平直方を支援させるため、朝廷は坂東諸国にそうそうたる武士たちを受領として任命したが、そのうち、上総介には直方の父・維時、安房守には平維衡の子・正輔が任じられている。

さて、良文はというと、平将門が伯父の国香と争っていた頃、将門の援護をしていた。
将門が乱を起こす前の天慶2年(939)4月に、陸奥守だった良文は鎮守府将軍にも任じられ、鎮守府の胆沢城におり、現地で起こった乱を鎮圧している。
承平の乱のとき、将門が殺されたことを一番に朝廷へ届け、それによってか、将門の旧領である下総国相馬郡を与えられている。

この時代は招婿婚のため、娘を通じて舅の館などの財産が婿に渡ることがあった。
将門の娘を妻にした良文の息子・忠頼はそのためだろうか、弟の忠光(ただみつ)と一緒に、異母兄の貞盛と共に将門を討った繁盛を「仇敵」と呼び、繁盛が延暦寺に大般若経600巻の書写を奉納しようとした際、妨害している。

将門の妻の弟・公雅は、父・良兼が病没すると貞盛たちと距離を置き、中立を保った。
しかし、将門が「新皇」を名乗り、反乱を起こすと、朝廷側につき、乱の鎮圧後は安房守に任じられ、天慶5年(942)には藤原秀郷の後任として武蔵守となって、荒廃した武蔵国の再建に力を尽くした。
良文の子孫とは良好な関係で、公雅の娘は忠頼の息子・忠常(ただつね)の妻となっている。
また、陸海の交通の要所・伊勢の地を巡って、公雅の子の致頼(むねより)、孫の致経(むねつね)が二代にわたって、貞盛の四男・維衡と戦いを繰り広げた。

つまり、同じ桓武平氏でも貞盛・繁盛の子孫と良文・公雅の子孫は仲が悪かった。

長元元年(1028)、坂東で乱が起こり、平忠常に対する追討の宣旨が出される。
忠常は忠頼と将門の娘との間に出来た子、つまり将門の血を引く良文の孫。
対して、その追討使に選ばれたのは、貞盛のひ孫で桓武平氏嫡流の直方。

平忠常の乱は、摂関家の頼通と教通兄弟の暗闘と、平氏間の諍い、すなわち、宿敵・良文流に対する貞盛流の攻撃といった形が加わって、乱は長引き、房総三国は「亡国」と呼ばれるほど荒廃した。
結局、戦わずして乱を鎮めたのは、忠常を家人としていた清和源氏の源頼信(みなもとのよりのぶ)だった。
成果を上げられなかった前任の追討使・直方は、頼信の息子・頼義(よりよし)を娘婿とした。それによって、のちに直方は『天下第一武勇の士』と呼ばれた八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の外祖父となった。
源頼朝に至る清和源氏の嫡流は、桓武平氏の嫡流の血を入れて成立したともいえる。

一方、平良文の子孫は領地の名を名字として名乗り、千葉氏、秩父氏、三浦氏、梶原氏など、数多くの氏族に別れ、のちに源平の合戦で源氏方として戦い、鎌倉幕府の有力御家人となる。
また、源頼朝の妻・政子の実家の北条氏は、平氏の嫡流・直方の子孫を称した。

京にいた平氏とそれに追従した者たちは壇ノ浦で敗れ、頼朝に味方した地方の桓武平氏の後裔たちは生き延びて、鎌倉幕府を支える御家人となった。
のち、室町末期に伊勢の桓武平氏から、伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)こと、北条早雲が出るのだった。

〈『今昔物語集』関連説話〉
賀茂忠行:巻24「賀茂忠行道を子の保憲に伝ふる語第十五」、巻24「安倍清明忠行に随ひて道を習う語第十六」
平将門:巻25「平将門謀反を発し誅せらるる語第一」
平良文:巻25「源充と平良文と合戦する語第三」
平貞盛:巻29「丹波守平貞盛児干を取る語第二十五」
平維衡:巻23「平維衡同じき致頼合戦をして咎を蒙る語第十三」
平致経:巻23「左衛門尉平致経明尊僧正を送る語第十四」
平忠常の乱:巻25「源頼信の朝臣平忠恒を責むる語第九」

巻二十四第十六話 安倍清明、師に従って道を習う
巻24第16話 安倍清明随忠行習道語 今は昔、天文博士・安倍清明(あべのせいめい)という陰陽師がいました。 昔の大家にも恥じぬほどのすぐれた陰陽師でありました。 幼いときから、賀茂忠行(かものただゆき)という陰陽師について...
巻二十五第一話 東国・平将門の乱(その1)
巻25第1話 平将門発謀反被誅語今は昔、朱雀院(すざくいん)の御代のとき、東国に平将門(たいらのまさかど)という武人がいました。これは桓武天皇の子孫の高望親王(たかもちしんのう)と申す方の子にあたる鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)良持...
巻二十五第三話 武者の一騎打ち
巻25第3話 源宛平良文合戦語 今は昔、東国に源充(みなもとのみつる)、平良文(たいらのよしふみ)という二人の武人がいました。 充は通称、田源二(みのたのげんに)、良文は村岳五郎(むらおかのごろう)といいました。 この二人...

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』
小学館 日本古典文学全集28『宇治拾遺物語』
『天皇家と源氏』奥富敬之著、三一書房
週刊朝日百科 日本の歴史59『承平・天慶の乱と都』朝日新聞社刊
日本の歴史 第07巻『武士の成長と院政』下向井龍彦著、講談社

巻二十九
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今昔物語集 現代語訳

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