巻6第2話 震旦後漢明帝時仏法渡語 第二
今は昔、後漢の明帝のころ(西暦57~75)のことです。帝は身長一丈(約3メートル)の金色に光る人がやってくる夢を見ました。
目覚めてから、知恵ある大臣を召し、この夢の相を見てくれと言いました。大臣は言いました。
「他国より、やんごとなき聖人がやって来ます」
帝はこれを聞いて、心待ちにしていました。やがて、天竺から僧が来ました。名を摩騰迦(まとうが)、竺法蘭(じくほうらん)といいます。仏舎利(仏の遺骨。宝石のこともあった)と経典、多くのものを持ってきました。すべてを帝に奉りました。帝はこの人を待っていたのだと、おおいに喜んで帰依しました。
しかし、これをこころよく思わない大臣や公卿も多くありました。多くある五岳の道士と呼ばれる人は、
「私が奉ずる教えは、王にはじまり民にいたるまで、国内の上中下の人が、みなこの道を貴いものとして、古より今に至るまで、国をあげて崇めてきたものだ。今、異国からやってきた、姿かたちもちがい衣服も異なる、わけのわからない者が持ってきた妙な書物を、帝が崇めているのは、きわめて安からぬことと思う」
そう考えて歎きあいました。世にも、新しい教えに批判的な人がありました。
しかし、帝は摩騰法師を大切にして、深く帰依し、寺を建立しました。その寺の名を、白馬寺といいます。
帝はこの寺に仏舎利と経典を納め、摩騰法師を住ませ、もっぱらに帰依しました。道士はこれを見て、「不愉快だ、おもしろくない」と考えて、帝に申し上げました。
「異国からきたあやしい禿(ハゲ)頭の者たちが書きつけた文や、仙人の骸などを、崇めらるのは奇異のことです。あの禿がどれほどのものですか。我々の道は、過去・未来を占って知り、人の様子を見て、今後身の上に起こることの善悪を知る、神のような道です。だからこそ、古より今に至るまで、帝から民に至るまで、国の上中下がこの道を大切にして崇めてきたのです。今まさに、これが棄てられようとしているように見えます。ここであの禿と術を競い、勝った方を貴び、負けた方を棄てるべきと思います」
帝はこれを聞き、胸はふさがり、歎き思いました。
「道士の道は、天の事をも、地の事をも、占い出して知る道だ。しかし、異国より来れる僧は、それを知らず、術のほどもわからず、おぼつかない。術を競って、もし天竺の僧が敗れたなら、とても悲しいことだろう」
帝は「すぐに術を競え」と宣旨を出すことができませんでした。まず摩騰法師を召して言いました。
「この国には、以前より崇められていた五岳の道士という者たちがいる。彼らが嫉妬の心を発して術を競いたいと言っている。どうすべきだろうか」
摩騰法師は喜びつつ答えました。
「私が運んできた法は、古より術競べををして、人に崇められてきました。ですから、すみやかに術競べを開催して、勝負を御覧になってください」
帝はこれを聞いてうれしく思いました。日をきめて、摩騰法師と道士と、殿の前の庭で術競べをするよう、宣旨を下しました。
その日になりました。上中下の人が国をあげて観覧しました。
東の方には、錦の幄(あく、テント)をたて、その中に身分の高い道士が二千人ほど並んでいました。髪が失われた高齢の人もあり、若くさかんな人もありました。それぞれがそれぞれの道をみがいた、古人に恥じぬ人ばかりです。
また、大臣や公卿は百官をともない、道士の方にありました。彼らが古い文書を読み解き、過去・現在・未来を占うことができるように信じられたからです。
摩騰法師の方には、大臣がただ一人あるだけでした。そのほかには、帝が心を寄せているばかりです。
道士の方では、玉の箱の中にさまざまな文書を入れ、装飾された台にすえ、並べておりました。西の方には、錦の幄をたて、その中に摩騰法師一人・大臣一人が居りました。瑠璃の壺に仏舎利を入れ、装飾した箱の中に、持ってきた経典を入れていました。わずか二三百巻があるばかりです。
このようにしてそれぞれが術をしかける時を待っていました。やがて、ある道士が言いました。
「摩騰法師から、道士の法文(経、文書)に火をつけるとよいだろう」
その言にしたがい、摩騰法師の方から弟子が一人出て来て、道士の法文に火を付けました。同時に、道士の方からも一人が出て、摩騰法師の法文に火を放ちました。双方が燃えあがり、炎を立て、黒い煙が空に昇りました。
そのとき、摩騰法師の仏舎利が光を放ち、空に昇りました。経典も同じように空に昇り、虚空でとまりました。摩騰法師は香炉をもち、それから目をはなさずに居りました。道士の方の法文は、ひとときにみな焼けてしまい、灰になりました。
舌を噛み切って死ぬ者がありました。血の涙を流す者も、鼻より血を流す者も、息□□で死ぬ者もありました。座を立って走り出す者もありました。摩騰法師の方に渡り、弟子になる者もありました。悶絶して息絶える者もありました。
このように不思議なことが起こったのです。
帝はこれをごらんになって涙を流し、座を立って摩騰法師を礼しました。その後、法文・正教は漢土に広まり隆盛し、現在にいたると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 西村由紀子
後漢の明帝のころ(西暦57~75)、インドから中国に仏教が伝わった。これはその顛末を述べた話である。
従来からあった宗教から大きな反発があったのは想像にかたくないが、道教が宗教教団のかたちをとるのは後漢末(三国志の時代!)といわれているので、この話のすこし後になる。
もっとも、「五岳の道士」と述べられているとおり、五岳(泰山、衡山、華山、恒山、衡山)にたいする信仰はすでにあった。教団のかたちはとっていなくとも、のちに道教と呼ばれる教えが信仰されていたのはまちがいないだろう。
仏教の僧侶がハゲ頭であることを異様と評しているが、インドから中国への気が遠くなるような道のり(九州→北海道とは比べものにならない)を徒歩で歩んできたにしては身だしなみに気をつかっていたと考えるべきだろう。定期的に剃らなきゃきれいなハゲ頭は維持できないし。
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