巻六第四十二話 義浄三蔵と武則天の話

巻六(全)

巻6第42話 義浄三蔵訳最勝王経語 第四十二

今は昔、震旦(中国)に則天皇后(武則天・則天武后)という女帝がいらっしゃいました。仏記を受け、深く仏法を信じ、広く衆生(民)をあわれみました。

武則天

そのころ、義浄三蔵という聖人がありました。斉州(山東省済南市)の人です。姓は張、名は文明といいます。法を求める心が深く、天竺(インド)に渡って、三十余国に遊行したのち、震旦に帰って、法を弘めました。

長安三年(703年)十月四日、西明寺において、金光明最勝王経を訳し終えました。「沙門波崙・恵表・恵治等筆受」(翻訳のクレジット)としてあります。同十五日に同寺で供養しました。

則天皇后はこれを貴び、百尺(約30メートル)の幡(旗)二口、四十尺(約12メートル)の幡四十九口、絹百疋、香華・灯明等の供具を施しました。みな七宝をもって荘厳されていました。供養のとき、紫雲が寺をおおい、経巻は光を放ちました。大地が少し揺れ動き(吉兆)、天よりこまやかな花が降りました。仏記を得た者でなければ、仏滅後五百年にちかいこの時代に、このような霊験を得ることはできないでしょう。

されば、世を挙げて義浄三蔵に帰依しました。また、則天皇后は心からあがめられました。そう語り伝えられています。

【原文】

巻6第42話 義浄三蔵訳最勝王経語 第四十二
今昔物語集 巻6第42話 義浄三蔵訳最勝王経語 第四十二 今昔、震旦に則天皇后と申す女帝在しけり。仏記を受て、深く仏法を信じ、広く衆生を哀ぶ。 其の時に、義浄三蔵と申す聖人在しけり。斉州の人也。姓は張、名は文明と云ふ。法を求むる心深くして、天竺に渡て、卅余国に遊行して、本の震旦に還り来て、法を弘む。

【翻訳】 西村由紀子

【校正】 西村由紀子・草野真一

【解説】 草野真一

武則天は皇帝となった中国史上唯一、空前絶後の女性である(武周革命)。
儒教道徳が支配的な中国においては、男尊女卑の考え方が浸透している。初期の仏教に男尊女卑の考え方はすくなく、女性出家者(尼)に関する典籍さえあるのだが、中国で改められた。したがって、日本に入ってきた仏教はほとんどすべて男尊女卑的な思想を宿している。

そのような社会においては、女性はリーダーになることができない。当然のこと武則天も皇帝になれるはずはないのだが、したたかさと時代的な要請によって、彼女は中華王朝の統治者となることができたのだ。
そのへんの事情は下の動画にくわしい。ちょっと長いが、すごく勉強になる。

武則天は仏教の庇護者であり、世界遺産となっている龍門石窟は「彼女がつくった」と言ってもいいものだ。

龍門石窟の中心、毘盧遮那仏。武則天の顔を模しているといわれる

義浄は玄奘に憧れ、玄奘と同じようにインドはナーランダ僧院に遊学している。帰国後は仏典の翻訳にあたった。

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