巻六第六話② 三蔵法師を待ったインドの高僧の話

巻六(全)

巻6第6話 玄奘三蔵渡天竺伝法帰来語 第六

より続く)

法師は摩竭陀国(マガダ国)に至り、世無厭寺(ナーランダ大学/僧院)という寺に入りました。この寺の戒賢(シーラバドラ)論師は、正法蔵ともいわれています。法師はその弟子となり、法を伝えていただきました。

ナーランダの遺跡

正法蔵は法師を見ると、声をあげて泣きました。
「私は年来の病があり、苦しむこと多かった。この身を棄ててしまおうと思ったとき、夢の中に三人の天人があらわれた。一人は黄金の色、もう一人は瑠璃の色、さらに一人は白銀の色をしていた。その美しさは、想像することもできないほどだった。天人が語った。
『汝が病は、過去に、汝が国王であったとき、多くの人民を悩ませた報いを得ているのだ。すみやかに昔のあやまちを観じ、懺悔すれば、その罪は除いてやろう』
私はそれを聞いて、礼拝してあやまちを悔いた。金色の天人は瑠璃の天人を指して言った。
『汝はこれを知っているか。これは観自在菩薩(観音菩薩)である』。また、白銀の天人を指して言う。『これは、慈氏菩薩(弥勒菩薩)である』
私は白銀の天人を礼拝して言った。
『私は常に兜率天(とそつてん)に生まれたいと願っています。すみやかに彼の天に生まれ、慈氏を礼拝したいと思っています』
『汝は広く法を伝えなさい。そうすれば、兜率天に生まれられるだろう』
さらに金色の天人が自ら語った。
『私は文殊である。わたしたちはこのことを汝に知らしめるために来たのだ。病を憂えてはならない。やがて、支那国の僧が来て、汝の弟子となるだろう。すみやかに法を伝えなさい』
そう言うと、三人はかき消えるようにいなくなった。その後、身に病はなくなった。やがて、支那国より法師が来た。そのとき夢で伝えられたことと同じだ。おまえに法を伝えよう」
法は瓶の水をうつすように伝えられました。

に続く)

【原文】

巻6第6話 玄奘三蔵渡天竺伝法帰来語 第六
今昔物語集 巻6第6話 玄奘三蔵渡天竺伝法帰来語 第六 今昔、震旦に、唐の玄宗の代に、玄奘法師と申す聖人在ましけり。 天竺に渡り給ふ間、広き野の遥に遠きを通り給ふ程に、日の暮れぬ。忽ちに宿るべき所無ければ、たどるたどる、只足に任せて行く間に、多くの火を燃(とも)したる者、五百人許来る。「人に値ぬ」と思給て、喜を成...

【翻訳】 西村由紀子

【校正】 西村由紀子・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 西村由紀子

戒賢とナーランダ大学

玄奘と出会ったとき、戒賢は106歳であったという。現在でもインドの平均寿命は68.3歳で日本の83.7歳に比べるとかなり短い。唐の時代のインドの平均寿命はさらに短かったと思われるので、100を超えるのは驚くべき長命である。

本話では戒賢が病に苦しんでいたと述べているが、100歳を超える年齢で健康な人は現代日本でも多くはないだろう。
戒賢がナーランダ大学の学長をつとめているころ、玄奘がその学生となったのは事実とされる。

未来仏・弥勒(慈氏菩薩)

戒賢が「兜率天に生まれたい」と述べるのは、そこで修行していると伝えられる弥勒菩薩の弟子となることを希望しているためだ。

弥勒は釈尊の次の仏とされている。彼が仏となるのは56億7千万年後とされており、この世で出会うことはできない。それまでの期間、彼は兜率天で菩薩(仏となる前段階)として修行しているとされる。56億7千万年はあくまでこの世の時間軸で考えればそうなるという話で、兜率天ではずっと短くなる。ために、兜率天は一種のユートピアとされ、そこから弥勒信仰が起こり、現在でも世界各地で見ることができる。
沖縄のミルク信仰は同じものが台湾やベトナムでも見られるが、ミルクは弥勒がなまったものと考えられている。

ミルク面(那覇市内のホテル)

弥勒は音訳であり、慈氏菩薩は意訳「慈しみの菩薩」である。

巻四第三十九話 弥勒像をつくった人の話
巻4第39話 末田地阿羅漢造弥勒語 第卅九 今は昔、北天竺の烏仗那国(うじょうなこく)の達麗羅川(だりらせん)に、寺がありました。金色に輝く十丈(30メートル)ほどの弥勒菩薩の木像がありました。仏が涅槃に入った(亡くなった)後に、末田地大...

チベット仏教の弥勒(全長12mの大仏) Maitreya Buddha inside the Thiksey Monastery, Ladakh, India

 

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