巻6第26話 震旦国子祭酒粛璟得多宝語 第廿六
今は昔、震旦の唐の代に、国子祭酒(文科大臣のような役職)の粛璟という人がありました。梁の武帝の玄孫です。
梁が滅び、隋の時代に入るとき、粛璟の姉は隋の煬帝の后となりました。粛璟は長ずると仏法を貴ぶ心がめばえ、大業(煬帝の治世。605~616)の時代には自ら法華経を読誦するようになりました。経の文を深く信じ、多宝塔をつくりました。高さは三尺(約0.9メートル)ほど、栴檀などの香木を材料としていました。同じように香木をもって多宝仏の像をつくり、塔に安置しようと考えていましたが、成さぬまま数年がたちました。
粛璟の兄の子に、鍄鈴という人がありました。ある朝、鍄鈴が粛璟の家に行こうと中庭を歩いていると、草の中に檀木の塔があるのを見つけました。中には真鍮の仏像が入っていました。その姿は中国のものではなく、面貌は胡国(北方の国)のものに似ていました。仏の目には銀が入っており、瞳の黒さは清く光り、日の光のようでした。
鍄鈴はこれを見て怪しみ驚き、走って伯父の粛璟にこのことを伝えました。粛璟はすぐに行ってこれを見て喜び、仏像をもって家に帰りました。みずからつくった塔の中に安置すると、まるでこの仏像のためにつくったようにぴったりでした。粛璟は喜び、思いました。
「私が誠の心を致したからこそ、この仏像を得たのだ」
その仏像の函の中に、百余粒の仏舎利(釈尊の遺骨)が入っていました。粛璟の家の幼い女子が、ひそかにこの舎利を疑いました。
「胡国の僧は、舎利を鎚(つち)で打ち、壊れないものをホンモノと判断するという。試してみよう」
舎利三十粒を取り、石の上に置いて、斧で打ちました。たちまち舎利は見えなくなりました。女子は怪しんで、地に落ちたものと思い、迷い求めましたが、ただ三、四粒ほどがあるのみで、残りはすべて失われてしまいました。
女子は恐れ、父の粛璟に起こったことを伝えました。粛璟は驚き、塔の中を見ました。舎利はみな、もとのように塔の中にあります。失われてはいませんでした。以来、粛璟はいよいよ貴び、かぎりなく崇め奉るようになりました。この多宝塔の前で『法華経』を読誦するようになりました。
貞観十一年(637年)、粛璟は病になりました。姉の后や親類はみなやって来て、見舞いました。みなが香をたかせて帰ります。ただし、粛璟の弟の瑀(う)という人と、娘の尼になった人はとどまり、さらに香をたかせ、経を読みました。
しばらくして、粛璟は娘の尼に告げました。
「私は死のうとしている。普賢菩薩が私を迎えに来た。東院にいる某法師を迎えなさい」
娘の尼は粛璟の言うとおり、法師を迎えに行きました。法師が来ないうちに粛璟は言いました。
「ここは不浄の地である。法師が来るようなところではない。私が行こう。おまえたちはここに留まっていなさい」
粛璟は弟の瑀が随行することを許しませんでした。
東院に行き、法師に向かってひざまずき、掌を合わせ、正しく西に向かってしばらくすると、倒れ臥しました。絶えたのだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【解説】 草野真一
仏舎利は釈迦の遺骨を意味する。釈迦が通常の人間ならば、遺骨を斧でたたいて砕けないはずはない。法隆寺五重塔には仏舎利としてダイヤモンドが納められている。そのような硬質の宝石類が仏舎利としてあつかわれていたのだろう。
多宝塔にたいする信仰も、普賢菩薩にたいする信仰も、法華経に由来している。法華経には「見宝塔品第十一」「普賢菩薩勧発品第二十八」と呼ばれる一章がある(品は章というほどの意味)。
粛璟は隋の皇帝の義弟であり高官だった。話は数多くの奇跡に包まれた静かな暮らしを送ったように語られているが、隋王朝の滅亡にも接している。波瀾万丈の人生を送ったと見ていいだろう。
【協力】ゆかり・草野真一
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